反事実的思考力

本を読むことで培われる能力の中で、一番重要なものは、反事実的思考力だ。そう言われても、なんのことか分からない人も多いだろう。説明してみよう。仮に、大学がある教育方法を取り入れたところ、学生の成績がアップしたとする。多くの人は、この新しい教育方法は効果があったと考えるだろう。しかし、新しい教育方法が成績アップさせるという因果関係が本当にあるかどうかはこれではわからない。因果関係を調べるには、仮にこの学生たちに今までの教育方法で教育したら成績はどの程度だったかを、実際の成績と比較することが必要だ。こうすることで、初めて新しい教育方法に効果があったかを比較できるのだ。ところが、「事実」は学生たちが新しい教育方法で教育を受けたというものである。彼らが従来の教育方法で教育を受けた場合というのは、「反事実」だから実際には存在しない。それにもかかわらず、実際には存在しない「反事実」と比較しないと、様々な環境や制度が社会や人に与える影響を知ることはできないのだ。

 自然科学の分野なら、「事実」と「事実」を比較することで、因果関係を明らかにできる。光が植物の成長にどのような影響を与えるかを調べるには、同じ植物から取れた種をある程度用意して、同じ土壌、同じ水分を与えて、光を当てて育てるグループと光を当てないで育てるグループを比較すればいい。光を当てて育てるグループを対照群、光を当てないで育てるグループを介入群として、両者に違いがあれば、光が植物の成長に大きな影響をもつという因果関係を推測できる。

 ところが、社会科学の分野なら人為的にそのようなことはなかなかできない。学生をランダムに二つのグループに分けて、新しい教育方法と古い教育方法を試してみて、どちらのグループの成績が高くなったのかを比較するというのが近い方法だ。しかし、実際にはこのようなことが試されることは少なく、一律にカリキュラム改正が行われる。せいぜい比較対象は、それ以前の学生の成績だ。ところが、毎年、学生の資質や意欲はカリキュラムの改正とは異なる理由で変わっているかもしれない。ある学年は、意欲ある学生が偶然多かったかもしれない。また、ある学年の年は、非常に気温が高くて学習効率が低かったかもしれない。インフルエンザの流行があったかもしれない。様々な条件を揃えて比較しないとダメだ。

 社会科学では、実際には存在しない「反事実」と実際に存在している「事実」を比較するという困難な問題に、限られた情報で立ち向かわなければならないのだ。実際、社会科学を学ぶ過程では、反事実的思考ができるように訓練を積む。しかし、そのような能力を身につけるのは、なかなか難しい。実は、そういう能力を身につけるのに有効なのは、多くの本を読むことだ。多くの人は自分が経験したことからしか物事を判断できないからだ。

 「仮に、大学の授業料が全額税金で負担されて無償だったとしたら、大学教育授業料の負担のあり方や税金についてのあなたの価値観は今と異なっていただろうか」。この質問は、「オイコノミア」という経済学教養番組の収録で、若い一般の出演者が別の一般の人から受けた質問だった。この質問を受けた方は、うまく反事実的思考ができずに答えていた。そこで、「こういう条件だけを変えて考えてみて下さい」とヒントを出した。その議論を聞いていた番組の出演者である芸人で作家の又吉直樹さんが、「経験したことがないことを想像することは難しいですよね」と助け船を出してくれた。

 小説家でもある又吉さんは、人物の気持ちや行動を自分が経験したことがないことでも想像力で作り上げていくという作業を続けているので、その難しさをよく理解しているのだろう。また、お笑いのネタを考える上でも、仮にこのようなことを言えば、人々の予想と少しずれるので笑いが生じるはずだ、ということを常に考えているので、そうした能力が鍛えられているのだろう。よく人の気持ちを考えられる人になりなさい、という親や教師は言うけれど、自分がその立場だったらどう考えるか、ということは、反事実的思考そのものだ。

 フィクションであってもノン・フィクションであっても、本を読みながら、自分がその立場だったら、どのように考えて行動するだろうか、ということを考える。それが、反事実的思考力を鍛えることにつながる。反事実的思考力を培うことは、大学での勉強か研究に役に立つだけではない。将来、会社で働くようになっても、仕事で進めていく上で直面する問題の多くは、自然科学実験のような比較対象実験が簡単にはできない。その場合には、反事実的思考で、問題の原因を素早く探り当てることが必要だ。つまり、自分が経験したことがないことを想像する力だ。自分が実際に経験したことは、本当に限られている。本を読むことで、先人たちが経験したこと、考えたこと、想像したことを、自分の経験に加えることができれば、あなたの反事実的思考力は飛躍的に高まるはずだ。

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