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Body Feels EXIT 2 - 傷メタフィジカル



 傷に関わる文化社会的な事柄は多くあります。

 キリスト教で聖痕と呼ばれるものや、社会的偏見や差別としてのスティグマ、儀礼儀式またはファッションとしての抜歯・削歯・刺青・割礼・抜毛・ピアスetc、リストカットやアーム・レッグカット等の自傷、躾や罰・拷問としての殴打・烙印、そして血の盟約のように契約や約束に関するものなどそれらは多種多様です。

 私たちの身体性を考えるにあたって”傷”というテーマはとても興味深い項目です。上記に挙げたような傷のバリエーションの前に、まずはそもそも生物にとって”傷”とはなんなのかということからはじめたいと思います。



…傷フィジカル



 様々な要因によって身体の部分が失われることは生物の活動において自然なことです。面白いのはなぜ傷跡は残り、そして痛いかです。

 第一に傷跡ですが、現在知られている限りでも私たちの遺伝子には人体の失われた部位を修復するのに必要な情報はありますし、休養と栄養をとればその修復にかかる時間も材料も調達できるはずです。にもかかわらず何億年も続いてきた生物史の結果としての現存の動物の多くは傷跡を持ちます。もし傷の完全再生が種の存続に優位なら、淘汰の結果としてそのように生物は進化してきたはずです。

 とはいえ全ての生物が傷跡を持つわけではありません。完全な修復ではないものの尻尾が再生するトカゲ類や、微生物の中には放射線などでDNAが粉々になってもそれを修復できるヒルガタワムシ、そしてプラナリアのように細切れにされた断片からでも自己再生することができる生物もいます。

 それらの原始的(?)な生物は無性生殖や傷の完全修復ができたりすることを考えると、もしかするとそのような自己複製や修復など、個体としての完結/完全性の高い性質の方が原初的な生物の性質であり、人間などの多細胞生物が持つ有性生殖や傷跡が残る性質は、むしろ進化の過程で獲得した集団的生物としての能力なのかもしれません。
 有性生殖の遺伝における合理性はすでに明らかにされていることが多くあります。
 私たちは傷跡が残らなければ良いと考えることが多いため傷跡は身体修復機能の不完全性だと考えがちですが、もしかするとそれにも何らかの理由があるのかもしれません。

 仮に傷跡というものが生存に優位な能力だとした場合、その機能とはなんでしょうか。



…外部記録装置



考えられることの一つ目は外部記録機能としての傷跡です。


 当然ですが傷跡が残るような怪我はその生物の生存に関わる重要な事柄です。運良くそのような怪我を生き延びた個体がいた場合、その危険性を覚えておくことはその後の生存率を高めることにつながります。そしてできることなら集団生活をする同種の仲間にもそれは共有したい情報です。

 ですが人間が言語や文字を発明したのはせいぜいここ数千年の直近の話で、それ意外の長い期間人間はもちろん他の生物も、その重要な情報を文字や言葉を使わずに記憶し共有する必要がありました。必要があったというよりは、それが可能だった集団が生存率が結果的に高かったはずです。

 この外部記憶としての機能は、言語やその他の様々な記録メディアを獲得した現在の人間においてもいまだに作用していると言えます。
 誰しも身体に何らかの古傷はあるだろうと思います。子供の頃に転んだとか、何十年も前にあった事故など、その傷がどうやってできたか覚えている傷跡があるはずです。もし私たちの体が完全な修復機能を持っていたとしたら、そのような怪我や事故のことを覚えているでしょうか。2000年公開クリストファー・ノーラン監督の映画メメントで、記憶障害を持つ主人公が大事な情報を自身の身体にタトゥーで記録する演出がありますが、これは”記憶としての傷跡”の分かりやすい例です。

 そして自分の傷跡だけではなく、他人の傷跡についてもそうです。基本的に傷跡というものはショッキングなものです。すれ違った人が身体に傷跡を持っていたらそれは目を引きますし、程度の酷いものであればそれは鮮烈なイメージとして記憶されます。もちろん礼儀を弁えた人であれば、あからさまな反応はしませんが、それでも傷跡のイメージは強く、そして恐ろしさを持ちます。
 もしかすると他人の傷跡を見ることは、その怪我の追体験なのかもしれません。いずれにしろ傷跡の持つイメージの強さは、恐ろしさ/危険さの共有という観点から言えば現代人にも確かに機能しています。



…緊急信号



 第二に”傷”の持つもう一つの重要な側面”痛み”についてです。

なぜ傷は痛いのか。このことは先天性無痛無汗症という生まれつき痛覚と発汗機能に障害を持ち、痛み暑さ寒さなどを感じない(感じにくい)病気とともに生活されている患者さん達たちから学ぶことができるかもしれません。
 この病気の子供達は自らの身体の痛みが無いため保護者が注意していないと、骨折、脱臼、虫歯、火傷、外傷、自傷(舌、唇、指を噛んだり、頭や足を強く打ちつける)等が絶えないそうです。特にストレスをためると外傷や自傷が増えることから、身体だけでなくその精神的なケアも重要と言われています。

 これらのことから言えるのは、痛みというのは身体各部位の健全な状態を保つための緊急信号だということです。身体に不都合な状態を意識的に避けるための誘因として、痛覚というものはあるのだろうと考えることができます。

 この異常事態を意識に知らせる緊急信号としての役割に加えて、痛みは記憶を補強する側面もあり、それはそのような危険な状態を覚え、以後それを回避する誘因を作る機能があるのだろうと考えられます。


 外部記憶装置としての傷跡、緊急信号としての痛覚、そのどちらも私たちの”傷”が持つ生物としての存続率を高めるための能力だと解釈することができるように思います。


…傷メタフィジカル




 それらを傷の第一義的な役割とすると、最初に挙げた文化社会的”傷”の理解の補助線になるように思います。宗教的な印や証、社会的偏見としてのレッテルやスティグマ、儀礼や儀式の証明あるいはファッションとしての抜歯、刺青やピアスなど、そして契約や約束に関する”傷”はどれも、傷跡や痛みの持つ外部記録装置としての、個人の内面的性質を代理表明する機能を利用していると考えられます。

 文化社会的な傷は、人体の傷が持つ性質の二次利用であるため、基本的に意図を持って行われます。ただしそれには個人の自発的ないし同意を持って行われるものと、他者に対して強制的ないし同意を持って与えるものの2種類があると言えます。

 ですがそのどちらもが傷跡という物理的現象を用い、概念的な属性を目的として行われるためメタフィジカルな傷と言えるかもしれません。




 自傷に関しては記憶装置としてよりも”痛み”の側面の方が重要かもしれません。自傷の動機は一般的には精神的ストレスを和らげるため、あるいは他者に自分の苦しみを知らせる為のサインと説明されることが多いだろうと思います。

 ですがリストカットやアーム、レッグカットなどの自傷行為は、精神的ストレス状態に置かれたからと言って全ての人が至る行為ではありません。どんなに辛い状況でもそのような欲求を微塵も感じない人も多くいると思います。そのために傷跡の持つ第一義的役割としての”ショッキングさ”という側面も合わさり、自傷行為は一部の人たちの持つ特殊な性質とみなされ、差別的扱いや奇異の目で見られる原因となることがあります。

 ですが先に挙げた先天性無痛無汗症の子供達の例を考えると、その考えは正確ではないかもしれません。

 その子供達には知能障害を持つ子供もいれば正常な子供もいますが、先天性無痛無汗症であること以外はその状態は様々で個人差があります。
 にもかかわらずその多くがストレス状態にあると自傷行為に至る為に、保護者による精神面のケアが重要であるということは、もしかするとそれはストレスと自傷のつながりは人間にとってごく自然で基本的なことであることを示唆しているのかもしれません。

 自傷の定義にもよりますが、自らの身体にストレスを加えることを広義に自傷(自虐といった方が正確かもしれません)と見做すならば、それは誰もが日常的に行なっていることです。

 悔しい時に唇を噛む、怒りで拳を握りしめる、恥辱に歯を食いしばる、ストレスで食欲がなくなる、腹を立てて壁を蹴る、ショックなことがあって頭を掻きむしる、イライラした時に爪を噛む、貧乏揺すりをするなど、これら全てを自傷に含められるかは分かりませんが、傷跡が残らない程度の身体的ストレスを与えることも自傷とするなら、リストカットやアーム、レッグカットなどは特殊な行為なのではなく、痛覚の異常など何らかの理由によって通常の抑制が効かず、自傷の程度が過度であるということになります。

 自傷(自虐)行為の説明の一つに、身体的痛みによる精神的痛みの置き換えというものがあります。その説では、人の身体の仕組みは精神的ストレスと身体的ストレスが同時に起きた時には、身体の保護を優先するため、その結果として精神的苦痛の優先度が下がりその苦痛が和らぐという説を根拠としています。

 緊急信号としての痛みの性質を考えれば、確かに身体的苦痛というのは骨折や出血など緊急の処置が必要で死に直結する可能性が高く、一方精神的な苦痛は中長期的な苦痛であることが多く1分1秒を争うケースは稀です。

 自傷行為はそのような人体の性質を利用したものであり、今を耐えてやり過ごすことができないほどの激しい精神的苦痛下においてそれから逃げる手立てもない時に、その今を生き延びるために身体的苦痛によって精神的苦痛をやり過ごすというのは理にかなっているように思えます。



…ストレス・マネージメント



 もしそうであれば、このように考えることが出来るかもしれません。

 人は精神と身体のストレス負荷の割り振りをしてストレスマネージメントをしており、一方が過剰な時にはその一部をもう一方の余裕のある方で引き受ける。そして精神と身体合計でのストレス負荷の調整し、その際身体的ストレスによる精神的ストレスの置き換えが自傷(自虐)行為となって現れる。それらは通常は適度に唇を噛む、拳を握りしめる、歯を食いしばるなど傷跡が残らず身体に支障を来たさない軽微の範囲に抑制される。ただし痛覚を持たない、あるいはそれ以外の通常備わっている抑制機能が働かないと過度の自傷/自虐となる。

 人間のストレスマネージメントの仕組みとして、例えば精神的ストレス受容のキャパが50、身体的ストレス受容のキャパを50とし、それぞれそのキャパを超えると失神や気が狂うなど意識的な限界に至るとすると、60の精神的ストレスが発生した時にはそれをどうにかして処理しなければなりません。

 その方法が、精神的ストレスのキャパでは引き受けられない余剰の10のストレスを身体的ストレスに置換し、精神的ストレス50、身体的ストレス10のストレス負荷として処理することで、どちらのキャパも超えることなく処理する仕組みです。50:10ではなく、30:30で割り振ればもっと余裕を持って処理できるかもしれません。このような仕組みであれば合計最大で100のストレスを処理することができます。

 そしてこの説から考えればその逆もあり得るかもしれません。それは過度の身体的ストレスが発生し、かつ精神的ストレスに余裕がある時、その一部を精神的ストレスに置き換えて身体的ストレスを緩和してやり過ごす行為や状態です。

 日常的に起きる身体的ストレスで考えると、例えば空腹時にイライラして怒りっぽくなること、突発的な打撲などの痛みに腹を立てて悪態をつく、暑い気温にイライラするなど、これらはもしかすると身体的ストレスの精神的ストレスへの置換と言えるのかもしれません。

 これらのことは当たり前の感情に思えますが、そもそもなぜ暑さや空腹時にイライラするのか、痛みに腹を立てるのか、考えてみると不思議です。そんなことをしたところで目下の具体的な問題が解決に向かうことはありません。
 例えば喧嘩をした相手に怒りを表すというのは、コミュニーケーションとしての目的と合理性があります。ですが事故としての痛みや、天候の暑さ、そして空腹などには怒りを表明したところでなんの意味もありません。そう考えるとそれは身体的ストレスの直接的な原因とその解決に向けられたものではない可能性が高いと言えます。

 もしかすると身体的ストレスと精神的ストレスの相互の置換と負荷の割り振りによるストレスマネージメントは、人体の基本的な仕組みであり、それがなければ容易に人のストレスはキャパオーバーするのかもしれません。

 もしそうであれば自傷/自虐行為は必要かつ重要な能力であり、もし問題があるのだとすればそれがなぜ過剰になるのかと考えるべきなのかもしれません。



…触るメタフィジカル



 自分の身体に触るということは、考えてみると非常に複雑で面白い行為です。触るというその一つの動作によって触るという”行為”と、触られるという”感触”が同時に発生し、しかもそれが二つの独立した感覚ではなく一つの統合された感覚として感じられます。
 それはまるで左右の目で見る異なる二次元の視覚情報が自動的に合成されて一つの三次元の視野として感じられるのに似ているのかもしれません。
 もちろん注意深く意識的に感覚すればそれを個別の感覚に分けることは可能ですが、私たちは日常生活の中ではそれを一つの感覚として扱っているように思います。

 ではなぜ、そして何のために私たちは自分の身体を触るのでしょうか。
 自分の身体を触ると一々書くのも面倒ですので、ここからは便宜的にそれを”自触”と呼びたいと思います。

 私たちがどのような時に自触を行うかを考えると大きく分けて二つあります。一つは目的を持って意識的に触る行為です。それは痒いときに掻く、肩こりを解すために叩く揉む、顔を洗う、寒さに手を擦り合わせるなどから自傷や自慰までも含まれます。
 もう一つは無意識的に触る場合です。例えばものを考える時に手で顔や顎や手を触ったり、腕や足を組んだりなど多く一般の人がするものから、癖としてその個人独特のものまで多種多様な”自触”を人は無意識に行います。

 自触は、触るという物理的で外的な行為と、触られるという感覚的で内的な反応が一つに統合されたものです。自触を考えるにあたって一つの良い例が素振りです。よくアニメなどで殴り合いの前に自分の手のひらを叩くあれです。あの行為は自らの意識的に叩く拳を、自身の手のひらで受けることによってどの程度の意識的行為が、どの程度の感覚的反応となるかの強弱加減の調整と言えます。これは意識と行為の同期調整と言えます。
 このことから想像されるのは、もしかすると自触行為とは人間の身体と意識の同期作業なのかもしれないということです。私たちは常に無意識的に自触をし身体と意識の健全な繋がりを維持しているのかもしれません。これは物理と感覚の接面であり、クオリアの接面とも言えます。

 そしてそのような自触には自分の声を聞く、自分の匂いを嗅ぐ、自分の姿を鏡で見る、自分の口の内構造と唾液の味覚なども含まれるだろうと思います。これらの一つに統合された外的行為と内的感覚によって私たちは自らの身体的行為と意識的感覚の同期を行い、それによって身体と意識の同期、バランス、健常な状態保っているのかもしれません。そして人が深くものを考える時に無意識的な自触行為をするのは、もしかするとその同期率を高めることが、考えるという意識的な行為においてその質に関わる重要な意味があるのかもしれません。

 もしそうならば身体と意識のの同期状態はおそらく、思考という意識的行為においても、身体的運動においてもその質を高めるためには重要なことなのかもしれません。前述の通り人はものを深く考える時に無意識的な自触をしますが、スポーツ選手などは難度の高い運動行為中に無意識的自触行為を頻繁に行っています。
 そして身体と意識の同期率はその身体的、意識的行為の質を高めるだけでなく、身体と意識を合わせた意味での身体性の健全な状態にも重要な意味を持つのかもしれません。



 身体と意識のストレスマネージメントとしての自傷/自虐、そして身体と意識の同期作業としての自触。もしこれらによって私たちの身体と意識のバランスや健全さが維持されているなら、それらは現代社会で進むIT技術による意識の拡張と未拡張の身体から生まれる、意識と身体の密度の差から何らかの影響を受ける可能性があるかもしれません。

 ですが逆に考えれば、自傷/自虐と自触をより深く理解することによって、今後さらにに拡張されていくであろう私たちの意識と身体のバランスや健全さを保つためのヒントを得ることが出来るかもしれません。近い将来、漫画”攻殻機動隊”のように私たちが義体というものを獲得した時は、自傷/自虐による精神と身体のストレスマネージメント、自触による意識と身体の同期は、その義体化された人間の健康に重要な役割を果たすのかもしれません。

 そしてこの自傷/自虐と自触は別個の異なる行為ではなく、自傷/自虐は自触に含まれると考えられるため、私たちの身体と意識ののストレスマネージメントと同期作業は相互に影響し合う関係にあるといえるのかもしれません。



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