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仙台七夕まつり まぼろしの定禅寺のはなし。

2023年8月6〜8日は仙台七夕まつり。これを切欠に多くの人が、仙台に訪れる。
ーちょっと美味しいものを食べに行こうか、いいお店ある?
仙台駅前は便利だけど、少しつまらないし、国分町はなんかだか当たり前すぎるし、一番町は少し方向が…と思うと、「定禅寺通り」あたりはどう?なんてなる。
ふと、思う。

「定禅寺」は存在するのか

調べてみると、もうない。
跡もない。碑を見たことはない。

仙台の中心市街地は仙台空襲(1945.7.10)で焼失したのだけれど、その前から定禅寺は廃寺となり、大日本帝国陸軍病院が建設されていた。
今は、仙台合同庁舎(勾当台公園の東側あたり)。

それは、仙台城の丑寅(北東)、鬼門の位置。

定禅寺の由来は

由来は定かではないようだが、戦国時代に建立され、
伊達氏の祈願寺(真言宗)であったそう。
仙台城は1601年に築城されておりその鬼門封じとして城の北東に位置していた。

時は経ち、明治維新。廃仏毀釈の風潮のなか、定禅寺は炎上・焼失(1870年)。
当時の仙台藩は戊辰戦争で敗戦したため知行域(所領支配権)が減らされ困窮しており、1871年の廃藩置県でなんと消滅。
後ろ盾も失った定禅寺は復興できず、1873年に廃寺となった。

その後のはなし。(〜空襲)

仙台城は政治と軍事の中心地だったわけだけれど、明治維新以降は軍事のみが残され、政治は明治政府により行われることになった。
仙台藩藩校(いわゆる学問所。1736年〜)「養賢堂」用地が広く残る勾当台地区に、政治・行政施設が集積する。
(こことクロスする東二番丁通り(学問・文教)の話はまた今度調べてみたい。)
これにより、江戸時代までは文化と教育の中心地であった勾当台は行政と文教の中心地になり、その一角にあった定禅寺の跡地には、大日本帝国軍陸軍の病院が開院したそう。

ここからは、先述の通り。

その後のはなし。(戦後)

定禅寺は無くなったけれど、その地名が残っているということは何かしら街にとって大切な場所だったということ。
定禅寺桜(空襲で焼失)という、大正初期で樹齢150年だった桜もあったんですって。

そして、仙台復興事業ではもともと青葉城の鬼門にあたる定禅寺へ向かう参道として、古くから整備されてきた直線道路「定禅寺通」が再整備。仙台経験を活かして、防災面の充実を図るため、広幅員の骨格道路を貫通させる整備と緑環境の創出に努めた計画となった。都市の主軸として、「杜の都」を象徴する緑量のあるケヤキが中央分離帯と歩道に植栽された。

https://www.nilim.go.jp/lab/ddg/seika/ks/ks043311.pdf

また、これから定禅寺通りの再整備計画(5ヵ年計画)も盛り上がっている。

その話はまた今度。

参考資料

仙臺城下繪圖(1664)
どこに定禅寺があるのかよくわからんが、町割はわかる。

御城下町割繒圖(1833)
幕末期の下町の名前や寺社などがよくわかる。まだ定禅寺はある。

レファレンス共同DBってすごい。


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