なぜ人を殺してはいけないのか

子どもの精神が成熟に向けて歩き出したとき、しばしば分かれ道にたどり着きます。人はそれを『厨二病』と呼びます。

この記事は厨二病を迎え、親を始めとした周囲の大人に首題の疑問を投げつけた子どもに対する回答の一例を紹介するものになります。

「なんで人を殺してはいけないの?」
こう問われたときに、あなたは答えに窮することでしょう。

「人として駄目なことだから」
こんな答えでは子どもは満足しません。

答えを探す際まずは直感的に、倫理的な理由を探し出すことでしょう。なぜなら、なんとなく、倫理的に駄目なことだと思っているから。
だけれどもクリティカルな理由が見当たらなくて、手前にある曖昧模糊とした選択肢を選ぶ。
「人として駄目なことだから」

私の考えとしてはこうです。
「人を殺してはいけないのは、倫理的理由など一切関係ない」
倫理とは義務ではなくマナーであって、かつその基準は時代情勢によって揺れ動く。そんなものに人間の行動を規制する強制力なんて持たせられないですよね。

倫理の砂漠を探し回っても答えが見つからないのは、答えがないからです。蜃気楼のような実態を伴わない答えしかありません。

それでは、なぜ人を殺してはいけないのか。
それは「国家として損害であるから」です。

なぜ人を殺してはいけないのか、それは法律で禁じられているからです。法律は誰の為にあるのか、それは国家です。
そして国家は国民全体の幸福を維持するための共同体です。

人間は元来平穏を好まず、争いを好む傾向にあります。4年に一度オリンピックがあるのは、意図的に安全な形で争いを見せることでその欲求を抑えるためだ、という説もあります。
そんな人間が野放しになれば殺し合いが頻発するのも無理ないでしょう。

これを読んでいるあなたも、人生で一度は殺したいくらい人を憎んだことがあるのではないでしょうか。それでも殺さないのは法律で禁じられているからであるし、長年の蓄積で浸透した「倫理」があるからですよね。

人が殺される、ということは自然の摂理以外を理由に人が死ぬということです。人が死ねば人口は減り、産業の発展に支障をきたします。ひいては国家存亡の危機となります。これは国民全体の幸福にとってよろしくない。

現在の日本で少子化が問題となっているのも、これが根底にあるからでしょう。
そういった意味で、少子化は緩やかな殺人と言えるかもしれません。

ここまで読んでいただければ、いたいけで未来ある子どもが人を殺してはいけない理由を尋ねてきたとき、その答えは自明でしょう。

黙ってグーパンかましてダッシュ!!


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