『エモい』の功罪

『エモい』という言葉が流行ったのは3年ほど前だろうか。私は当時その現象を嫌悪していて、日本語の崩壊も始まったな、と『ヤバい』が広辞苑に載ったときのジジイみたいなことを思っていた。
言語レベルは民度に直結すると思っていたし、日本人の言語レベルは低下傾向にあると思いこんでいた。大した学もないくせして勝手に日本の今後を憂いていた。
その1年後くらいに、はたと気づいた。民度はむしろ向上しているのではないか、と。

言葉がなぜ民度に影響するのか。それはひとえに言語化という言葉で片付けられるだろう。
人間は言語で世界を知覚し、言語で知的活動を行う。目や耳、鼻などの感覚器官はあくまでセンサであり、電気信号を脳に伝達するに過ぎない。電気信号を処理し系統立てて整理するのは言語である。
それ故に言語は民度に直結する。

『朝』と『曙』はその言葉の指し示す意味は同じようなものであるが、イメージするものはわずかに違う。もっというと、明け方の日の出を見たときに『朝』と表現するか『曙』と表現するかで当人の感じ取り方は異なる。
これが言語の働きだ。
どちらが良いという話ではない。どちらも選択できる、という状態が良い。言語レベルは知覚できる範囲を規定する。

『エモい』という言葉の意味は非常に広義に渡っている。なんとなくエモーショナルでノスタルジックで、趣がある現象はほぼすべて『エモい』に内包されていると言っても過言ではない。『曙』は『エモい朝』と言える。

ここに日本人の言語レベルの向上を見出した。

先刻述べたように、人間は言語化できない現象を知覚できない。この『エモい』はその汎用性を持ってして言語レベルの低い人間にも『趣き深さ』を知覚させる。
言語化できないけどなんとなくいい現象を力技で知覚対象と為したのだ。

『エモい』に内包された現象には本来一握りの人間しか知覚できなかった感情もあった。それ故にその人間たちは『エモい』という言葉に嫌悪感を抱くのだと考える。
『エモい』はその曖昧で難解で希少性の高い現象をコモディティ化したのだ。換言すれば大衆化した。
自分たちしか理解できないからこそ価値があったのに、凡人共が理解した面していることに憤慨していたのでしょう。

言葉を多く知っている人というのは、世界の解像度が高い人だと言える。より細かくより正確に言語化することができれば、世界の画質や音質はもっと良くなる。

すなわち『エモい』の台頭により、日本人は低ビットレートではあるが、世界のより多くの現象を知覚できるようになったのだ。

世界には未だ言語化されていない曖昧模糊とした現象が蔓延っている。その不明瞭な現象に対面したとき、どういった対応を取るのか、それは知性や教養によって決まる。言語と言語の間に落ちた現象を堪能するためには相応の知性が必要になる。

知性は言語から独立している。
なんとも言い表せないけど良い感じ、ということを感知できている場合もある。これが知性。しかしそれでは他者と共有できないし、最大多数の最大幸福には繋がらない。言語化して初めて、全体の利益に繋がる。
最大多数の最大幸福の是非についてはベンサムへどうぞ。

この文章の主題はつまり、知性のないやつほど言語力を鍛えるべきだ、ということ。
そのためには日頃種々の文章に触れる必要がある。それは決して出版された書籍である必要はないし、各種SNSでもいい。
清濁併せ呑む余裕が重要。

最後に、ある偉人の言葉を借りよう。

毒も喰らう、栄養も喰らう。 両方を共に美味いと感じ――血肉に変える度量こそが食には肝要だ

範馬勇次郎

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