FORK_WORKS WEEKLY for Neoteny.20190712

「Neoteny」(幼体成熟)である当事者が、「Neoteny」であることをどの程度認識するのか。また第三者が、肉体の成熟を迎えている外観から、彼らをいかに「Neoteny」として判断し観察しうるのか。

個々人の視点が、集合体としての「Neoteny」を定義するのであるならば
その個人がネオテニーではないという立証は、いかに定義されるのか。

対象者と観察者が、人体形成とは異なる、人間の成熟度を計測する場合
集団においてそれは形骸化し、社会の中では、その境界がなくなり無意味になる。
「ネオテニー」と呼びかけ、反応を受けることが唯一の「Neoteny」の定義づけになるに違いないという仮説を持ち、表現した。

表現方法として静的な写真と動的なプログラム表現で対比した。

背景の白黒写真は、プロレス中継を野外で見る日本人を撮影したものである。
個人が娯楽により集団化すると、どの個人も同一化し、見る側にとっては境界がなくなる。その瞬間、個人を定義しえなくなる錯覚を覚える。

プログラミングで組んだ動的に空から舞う雪は、さらに個人の境界を視覚的に見失わせる。
写真中央に配置した、ポイントにカーソルを重ねると、同時にその雪の色が変化する。

さらに、集団に埋もれた唯一発見できる対象の白いポイントをクリックすると、
そこからは抑揚のない機械音で「ネオテニー」と音声が流れ出す。

「ネオテニー」と呼びかけることが、唯一「Neoteny」が存在することを証明する


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?