プリリズRLについての備忘録:埋められない距離と逃げられない〈私〉


プリティーリズムとプリパラを題材にした文章を読んでいろいろと思うことがあったので、一年くらい前に描き途中で放り投げた文章を(結局うまくまとまってないけど)書き直してみた(完全ネタバレです)。

プリティーリズム レインボーライブにはALIVEという歌があり、この歌のなかに次のようなフレーズがある。

「私と私は世界と関わる 君は君を連れて生きていく」
(プリティーリズム レインボーライブ 「ALIVE」より)

この歌はプリティーリズム レインボーライブ(以下、プリリズRL)の涼野いとと小鳥遊おとはという2人の歌(作曲は神浜こうじ)である。この歌のこのフレーズを聴いたとき、最初は釈然としなかった。次に何か重苦しいものを感じ、今は涙が出そうになる。なぜだろうと考えているうちに思いついたことを以下、書き記しておく。

なぜ「私」と「君」ではないのか

最初にこの歌を聴いたときはいととおとはの物語についてまだ自分の中で整理がついておらず、上記の歌詞の意味も捉え損ねていた。しかし、すんなり解釈できなかったのはそれだけが理由ではない。おそらく、他のアニメやJ-POPの歌なら多くの場合「世界と関わ」ったり、「生きていく」のは「私」と「君」の組み合わせになるだろう。しかしプリリズRLでは違う。あまり耳慣れないフレーズであったことも最初に聞いた時の釈然としない感じに関係していたのだろう。

なぜ「私」と「君」ではなく「私」と「私」であり、「君」と「君」なのか。一つの考え方は、「私」と「君」の間に埋めようのない距離があることを表現するためというものだろう。世界と関わるのは他の誰でもなく「私」自身であり、「生きていく」のは他の誰でもなく「君」自身であるという孤独なイメージ。その孤独は(物理的には)一緒にいるはずなのにどうしても埋められない距離、あるいはお互いの理解できなさからくるものであるかもしれない。

プリリズRLにおけるいととおとはの物語の核となっているデュオショーをめぐる一連のエピソードにおいて、いとは涼野家と恋人であるこうじの神浜家の間にある関係を知りショックを受ける。デュオショーのためにいとの家にお泊まりに来ていたおとははその話を聞いてしまう。自分の父親のせいで恋人の父親が死んだと聞かされ、さまざまな感情を抱えて泣くいとを前におとははハーブティーを淹れてあげるが、「ごめんなさい。わたし、こんなことしかできなくて」とつぶやいて涙を流す。

観ている方が泣きたくなる場面だが、この時おとははどうして泣いていたのだろうか。まず思い至るのは、いとが置かれた状況と彼女の感情に想いを馳せて泣いてしまったという理由だろう。だが、それだけだろうか。この時のおとはは泣いているいとを見て、その痛みや苦しみ(これ自体おとはが想像している、と私が想像しているものだが)を決して理解することもできなければ、一緒に負うこともできないこと――2人の間にある埋めることのできない距離――に泣いていたように思う。

「私」は<私>から逃れられない

しかし、上に引用したALIVEのフレーズでは「私」と「君」の距離とは(密接に関わるが)違うものも表現されているように思う。2人の人間の距離とそれぞれの孤独が表現したければもう少し違う表現もあり得ただろう。もちろん、「私と君」が一緒に生きていくといったニュアンスの歌詞が氾濫しているなかで、ALIVEのフレーズはより一層その「距離」や「孤独」の表現をエッジの効いたものにしているとは思う。ただ、私が気になったのはこのフレーズの「私」と「私」、あるいは「君」と「君」は同じ「私」や「君」を示しているのだろうかということである。もう少し踏み込んで言えば、「私」と「私」の距離は「私」と「君」の間にある距離とは違うように思われる。

それはどんな距離なのか。その問いについて答えるためには、2回繰り返されている「私」や「君」はそれぞれ何を示しているのかを考える必要がある。自己論の深みにはまりこむのは正直ごめん被りたいのでシンプルに考えると、主語となっている「私」や「君」は「他でもない」おとはやいと自身のことだろう。あまり好きではない言葉だが、これを「主観」と普通言われているものと思うことにする(主観というと意識のことだけを指しているような感じもあるが、意識や精神といったものを身体と切り離すことはできないという立場をここでは都合よく取っておこう)。
主語ではないもう一方の「私」や「君」はなんなのか。これを私は、他者による「私」や「君」のイメージないしは他人との関わり合いのなかで「私」/「君」が解釈する自己像、と解釈する(なお、この2つは厳密には同じではない。他者によるイメージはあくまで他者に帰属し、そのイメージの解釈は「私」に帰属する。しかし煩雑になるのでここではこの2つをまとめて<私><君>と表記し、主語にあたる方を「私」「君」と表記することにする。)。

「私」と<私>との間の距離、あるいはズレとは何か。そのようなズレのうちある種のものはしばしば、コンプレックスと呼ばれている。プリリズRLの中で言えば、母親に完璧であることを求められ、また自らも完璧な自己像を作り、挫折したべるがわかりやすい例だろう【注1】。「べる」は<べる>の存在によって苦しむ。そして、少なくとも現代の(日本)社会において、この<私>から自由に(影響を受けずに)生きることはきわめて困難なように思う。私がALIVEという歌から受けた重苦しい感じの正体はきっとここにある。

やっかいなのは、この<私>は「私」と他者によって構築されているものであり、双方にとって容易に変えられるものではないということだ。ここでいとの話に戻ると、いととこうじは2人の交際をお互いの両親に反対され、実際に一度は別れようとする。言うまでもなくいとはこうじの父親であるジョーの死にはなんら責任はないにもかかわらず、2人が一緒にいる姿を見ると事故やジョーのことを思い出してしまうという理由でなつこは2人の交際に反対し、いとの父親のゲンもこうじのことを遠ざけようとする(なつこの場合、2人の姿がジョーとの別れ際の自分の行動を思い出させてしまうことも理由の一つだっただろうが)。ここで、なつこにとってのいとは父親のゲンと分かちがたく結びつけられ、それゆえにゲンやなつこの世代のさまざまな出来事や感情と結びつけられている。もちろん、たとえば法律上いとが涼野ゲンの娘であることをやめることはできるかもしれないが、他者(なつこ)と自分によってつくられた<いと>から「いと」は逃げることができないという問題は別物である。そしてこの<いと>は「いと」が望んだからといって簡単に変えられるものではない。それは「いと」にとっては埋めようもない距離を持った他者とのやり取りの中で形作られるものだからだ【注2】。「私」は<私>からそう簡単に逃れることはできない。同時に、「私」は「私」自身や他者から逃れることができない。

「君」との埋められない距離をそのままに、<私>を抱え込んで生きていく

「私」と「君」との間には埋められない距離があり、「私」や「君」は<私>と<君>を抱え込んで生きてゆかざるを得ない。少し暗い話のように思えるが、ALIVEは決して悲壮な曲ではないし、プリリズRLもそうではない。りんねはこうじと別れ話をしたいとを抱きしめて「過ぎ去った時は変えられない。でも、人の心は変えられるよ。」と語りかける。確かに、「私」/「君」や<私>/<君>は変えられるかもしれない。しかし、おとはの立場からすれば、埋められない距離を隔たった「いと」を変えることはできないし、<いと>を変えることも容易ではない。できそうなことといえば「いと」自身が変わる/変えるための力になることだろう。作中では自らが作った歌詞を通して、また手を取ることを通していとの力になろうとするおとはの姿は、人は間接的にしか人にかかわれないが、確かにかかわることができると思わせてくれる。そしてALIVEの歌の折々には、<私>や<君>を抱えて生きていくことで「私」や「君」が変わっていく姿が力強く描かれている。


(注1:なお、余談だが<私>が強固であればあるほど、「私」が<私>を変えることによってズレを調整することは難しくなるのだろう。<べる>は完璧でなければ愛されないという存在であり、「べる」はそれを固く信じていた。それゆえになるに「べるさんだってみんなに愛されているじゃないですか」と言われても、すぐにはそのように<べる>を変えることはできなかった。)

(注2:少し話がそれるが、これはジェンダー・アイデンティティなどでも似たようなことを指摘できるだろう。私のジェンダー・アイデンティティは私が自由に操作したり変更したりすることができるものではない。他者によって私のジェンダーがどのようにアイデンティファイされるのかによって左右されてしまう。)

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