スクリーンショット__38_

『HUGっと!プリキュア』:若宮アンリの語りにくさについて


TVアニメHugっと!プリキュアの42話が放送されてから数日間、インターネット上のさまざまな場所でいろんな人たちがこのエピソードに言及してきた。そしてその多くはプリキュアで初めて「男の子がプリキュアになった」ということに注目したものであった。しかしながら、私はそのような語り口に違和感を覚えると同時に、42話の若宮アンリの話について語ることに困難を感じてきた。この記事ではまずこの「語りにくさ」について整理をしてみたいと思う。その上で、私なりにこの話について語ってみたい。


なぜ若宮アンリの話は語りにくいのか


42話はとても簡単に言ってしまうとこんな話である。フィギュアスケーターとして将来を有望視されつつも足の故障から最後の舞台に立とうとしていた若宮アンリが交通事故に巻き込まれて選手生命を絶たれる。しかし、主人公のキュアエールから「エール(声援/翼)」を受け取ってキュアアンフィニへと変身した若宮アンリは一度限りの奇跡の演技を見せる。このことから、上記のように「男の子が初めてプリキュアに変身した」と受け止められ、あれこれの意見が出されている。しかしながら、私は若宮アンリのエピソードについて、「男の子が初めてプリキュアになった」という語り口で語ることに抵抗を覚える。なぜか。


ここで確認しておきたいのであるが、もろもろの論点は飛ばして確かに42話は「男の子が初めてプリキュアになった」話としてみることができるとしても、アンリ自身によってそのような話として捉えられているわけでも、語られているわけでもないということである。

まず、若宮アンリはプリキュアに変身したくてしたわけではない。アンリは絶望の中で敵陣営のクライアス社に利用されて多くの人びとに危害を与えてしまっていたのだが、この状況の中で主人公の野乃はなの「アンリ君は、どんな自分になりたいの!?」という問いかけに対し「みんなを笑顔にできる自分」と返し、エールの応援に応える形で結果的に変身している。また、周りの人間について言えば、もちろん驚きはしているのだが、「男のはずのアンリがプリキュアに変身した」という反応は一切見せていない。

アンリ自身は後に「たとえ若宮アンリの体でも、若宮アンリの心をしばることはできないんだ」と語って、選手生命を絶たれた今、どのような自分になっていきたいのかを見つめていく姿勢を見せている。アンリ自身による42話の一連のできごとはこのようにして語られているのである(なお、このセリフ自体がジェンダーにまつわるメッセージになっているのではないかという点については後述する)。

そして、もう一つ重要なのが、アンリがこれまでの話の中で他人によって用意されたカテゴリーやストーリー(ボーダーレス、未来を約束された王子、などなど)を生きることへの抵抗を示していることである【註1】。ベタとメタの次元を取り違えているのだろうという批判を承知の上で書くが、このような人物について、アンリ自身が語ったストーリーとは違う物語にアンリを押し込んでしまうことは、きわめて暴力的なことではないかと筆者は思っている。だからこそ、筆者は最初に述べたような違和感を覚えたのである。

しかし、若宮アンリの話の語りにくさはこれだけではない。「(おそらくは)男性(と思われる)人物が、それまでは女性がなるものと思われていたプリキュアに変身したこと」というのは、間違ってはいないし、これをジェンダーの観点から語ることもまた不思議なことではないのである【註2】【註3】。

ジェンダーの観点から明示的に描かれていたり論じられていたりしないものについてジェンダーの観点を用いて評価(批判)してはいけないわけではない。むしろ、関係ないと思われていた事柄についても実はジェンダーの不均衡な関係性が埋め込まれているのだということを暴露し批判していくのがこれまで行われてきたことであるし、このことによって――未だに性差別が根強いとはいえ――多少なりとも日本社会がマシな方向に向かってきたであろうことは確かだ。そのような語り口で作品を語ること自体はきわめて重要な鑑賞の仕方の1つであると筆者は信じている。ジェンダーの観点から論じられることを拒むというのはその意味できわめて危ういのである。

だからこそ、筆者は若宮アンリについて語ることの難しさを感じていたのだ。アンリの話をジェンダーにまつわる話として回収することの暴力性と、一方でジェンダーの観点から語ることを拒むことの問題(ある種の脱政治化)との間のジレンマがあったと言ってもよい。

※言うまでもなく、このようなジレンマを感じない、という人はもちろん好きな観点から論じればよいのであって、これはあくまで私自身が考えていることである。

ではどう語るのか

このようなジレンマに直面したときに、「同時に両方の立場を取れないのだから思い切ってどちらかの立場から論じる」というのは1つのよくある方法である。だが今回は私は違う方法を取りたい。簡単に言えば、アンリに対する暴力にならない形で――もちろん、どのような記述も誰かしらに対するなんらかの暴力性を伴うのだが――ジェンダーの観点を中心に据えて42話をみると何を論じることができるのかを考える(その上で余力があれば別の観点から好き勝手論じたい)。

アンリに対する暴力にならない形でジェンダーの観点からどう語るのか、ということだが、一言で言えば語る対象を変えればよい。つまり、「男の子がプリキュアに変身したこと」ではなく、「そのように語られうるような事態を周りのキャラクターはどう受け止めているのか/製作者はどのように描いているのか」という点に焦点を移すのである。 結論だけを端的に言えば、42話はそのような事態について、性別という観点から一切言及していないし、他のキャラクターもそのような観点からの言及は行っていない。つまり、若宮アンリ/キュアアンフィニの性別について言及がなされていないのである。ここで重要なのは、「言及しない」ということはそれ自体が表現となりうるということである。

というのは、「プリキュアは女性が変身するもの」であるにもかかわらず「男性が変身した」という言及の仕方は、もちろん「(解剖学的な)性別の壁を越える」というメッセージを伝達しうる。しかしながら、同時に、というかその前提として「プリキュアは女性が変身するもの」というメッセージを伝達しているのであり、よほど注意深く伝達しない限りは女/男という性別の二元配置が前提とされていることを相手に伝えてしまう。さらに、これは「男がプリキュアに変身するのは普通ではない」というメッセージをも伝達するのである【註4】。

もちろん、男女の間の不均衡なジェンダー規範やジェンダー関係というのを前提とした上で、構造的に差別されている側の女性が「プリキュア」となることを通してそのような構造を問う、という側面はあるだろう。しかしながら、男女の二元論配置や普通/特別という区別を導入することによってそのような発想に馴染まない子どもたちに否定的なメッセージを伝えてしまう危険もある。「言及しない」ということは――意図している、していないにかかわらず――そのような危険を回避できる可能性がある。

これらの2つの考え方はどちらかが正しいというものではないのだが、「言及しない」ということが「明示されていない表現」としてどのようなはたらきを持つのかということは検討されるべきだろう。 この「言及しない」ということは製作者側によって意図されたものなのだろうか。こればかりは聞いてみないとわからないのだが、どちらにも解釈することはできるだろう。

上記のようにアンリは自分の体であっても自分の心は縛れないということを語っている。これは、素直に読めば怪我をして選手としては復活できない身体になってしまったとしても、なりたい自分を思い描くこと、そのために努力することはできるというメッセージのように思える。他方で、これは広い意味でのトランスジェンダーを念頭に置いたメッセージとして受け取ることも可能である。

ただ、仮にそうだとしても、ジェンダーにまつわる話を42話のメインに明示的に据えているというわけではないだろう。ジェンダーの観点から評価することは自由になされるべきだし、それに一定の価値はあるはずである。しかしながら、その観点から記述しきれるほど42話は(というかHugプリは)シンプルではない。もしまだ見ていない人がいたらぜひ自分の目で見て語ってほしいと思う。

※なお、私自身が「応援すること」というテーマで書いた記事へのリンクを貼っておくので興味のある方はぜひご一読ください。


【註1】この点に関して、そもそもアンリを安易に「男の子」と前提すること自体を疑問視するという立場もありうるだろう。フィギュアの男子の大会に出ていることなどから、筆者自身は基本的にアンリは少なくとも解剖学的に男性であるという想定をしてもよいと思っているのだが、アンリ自身の性自認について明確に述べられたことは記憶の限りない。自らを「氷上の王子若宮アンリ」と語ることもあるのだが、「王子」であればかならず性自認も男性である、という想定は「少女革命ウテナ」というアニメの存在を考えれば保留にせざるを得ないだろう。


【註2】むしろ、「女児向けアニメ」であり、かつジェンダー規範に関する問題意識を常に持ってきたプリキュアシリーズであればなおさらその観点から見られやすいだろう。なお、本作は歴代シリーズと比べてもかなりわかりやすい形でジェンダー規範やジェンダー関係について目くばせをしている作品であると筆者は考えている。例えば、1話で一見「赤子を守るため闘う女性(母親)」のように見えるシーンで巧妙なずらしを入れて違った解釈を可能にしている点や、愛崎えみるをめぐる一連のストーリー(41話では家父長制の頂点に立つ祖父に対して、かつて抑圧者側であった兄の正人やアンリがプリキュアたちとともに立ち向かっており、敵の怪物は家父長制の権化たる「愛崎家」を模したものとなっている)などはわかりやすい例である。また、シリーズ構成の坪田文氏も子を産むのが女の幸せみたいなジェンダー規範の押し付けになってしまうのは避けたいという旨の発言をしている。これらの点について、プリキュアがあくまで子どもたちにとっての救いを第一に考えた結果、ジェンダーの観点を重視した作品になっており、後者が先に目的としてあるわけではないのだということを主張し、それを評価する立場に立つ人がいる。筆者自身はこのような立場を否定はしないし、実際に製作陣からしたらそれが事実なのかもしれない。しかしながら、そのような議論の仕方はやはり脱政治化の試みに転化しかねないという点には注意が必要だと考えている。


【註3】註2と関連するが、42話や19話のアンリについて言及して「プリキュアは女の子は救わずに呪いを再生産している一方で男の子が救われているのはおかしい」といった批判がインターネット上で散見される。しかし、これは端的に間違っているのではないかと筆者は思っている。註2でも触れたが、「愛崎家」は「女はヒーローになれない」とか「ギターなんて女にふさわしくない」とかバリバリの性差別をまき散らしてえみるの心を縛りつけるのだが、主人公たちとのかかわりのなかでえみるはそれに抵抗し、また当初は抑圧者としてふるまっていた兄の正人も反省してえみるを応援するようになる。「女性だけが頑張って闘う」のではなく「差別する側がまず踏んでいる足をどける」ところまで含めて描いている点はよくできているのではないかと筆者は思っている。もちろん、ジェンダーの観点から言ってプリキュアが完璧な作品かと言えば、そんなことはない。いろいろな考え方の人がかかわっているのだし、商業的に成功するために保守化しなくてはならない事情などもあると思うが、いくつかの点で問題はある。一例をあげれば、なぜか全員が(変身時は)ミニスカートであることである。ミニスカートはもともと、「自分の身体や(広い意味での)セクシュアリティは自分のものだ」という主張を込められていたと言われている。その意味では「解放」を志向したものであったかもしれない。しかし、現状ではミニスカートを履くことは一種の規範になってしまっている(つまりひるがえって女性を縛るものになってしまっている)可能性があると筆者は思っている。制服で少し長めのスカートにしていると「あの子スカート長くない?」とか囁かれてしまうような状況でそれを「解放」の証として見ることは難しいだろう(筆者の高校生時代の経験より)。というより普通に考えて女性は制服とかでなければ55人もいて全員ミニスカートというのはありえなくて、もっと多様な服装をしているはずなのである。明らかに不自然だ。また、プリキュアでは基本的にメインのキャラクターの中では細見の女性しか登場しないこともジェンダー表象の観点から問題があるだろう。Hugっと!プリキュアに限定しても、終盤の連携技のシーンでは「マザーハート」の力を借りて敵を抱擁し浄化するのだが、これも母性愛神話を再生産していると言われても仕方がないのではないかと筆者は思っている。とくに、本作では男性が女性と同等に育児にかかわっていることをしれっと描いてることを考えれば残念なのは否めない。


【註4】これは完全に蛇足だが、この「言及しない」ということは「プリパラ」というアニメにかんしてしばしば言われることである。このアニメの中では解剖学的には男性/女性であるキャラクターが女性/男性の(と大抵の場合理解されるような)恰好をしているのだが、そのことについて初登場時を例外としてほぼまったく言及されず、他のキャラクターたちもごくごく当たり前のように接している。このことによって「異性装」は「普通ではないけど否定されるべきものではない」ものではなく最初から普通のものとして扱われる(「有徴化」されない)。もちろん、実際には差別や偏見があるのだが、「理想の世界」として描かれているアニメにおいて、このように描くことには一定の意味があると筆者は考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?