ルーマン『リスクの社会学』序文メモ

【本書の問い】 
「われわれは、全体社会というシステムを基点にして世界を観察するのであり、このような観察を行う現実的な作動として、コミュニケーションを想定している」ことを出発点とし、リスク(ノーマル性からの逸脱)を全体社会がどのように処理するのかをみる(15)。

※このような観点に立つ以上、本書も特定のリスク概念を採用するという「決定」を行っており、そのリスクを引き受ける必要がある。

「現在の全体社会の中でリスクについて数多く語られている事実は、この全体社会のノーマルな形式を逆に照らし出して」(10)おり、 「問われるべきなのは、現代社会が災いをリスクという形式で把握しようとしている事実から、われわれは、この全体社会のノーマルな成り行きに関してどんなことを読み取れるかである」(10)。
本書での主題に合わせれば[反省的で普遍的な問題へと変わった]「リスクについて語られるとき、合理性、決定、技術、未来、あるいは時間そのものについてのどんな理解が前提とされているのだろうか」が問われるべきである(11)。


この問いに関連して注目に値するのは蓋然性が極端に低く、しかし一度起こればカタストロフィックな帰結をもたらす出来事に関心が寄せられていることである。
 今日におけるこのようなケースでは、「人間ないし組織、つまりは決定[というコミュニケーション]こそが、こういった出来事を引き起こす原因として同定されている」という説明が有望である(12)。
だからこそ「決定に反対の立場をとることが意味を持つ」のであり、ここでは「未来は、現在下されつつある決定に、あるいは、それがすでに下された決定であるならば、もはや修正できない決定に依存しているという現実」が前提とされている(12)
蓋然性の低いがカタストロフィックなリスクが決定に帰属されることにより、リスクは普遍的なものであり、また倫理的な議論運びが一般化される。これにより想定可能な合意の条件や合理的理性による決定という努力が台無しにされる

【リスクの社会学】
社会学にとっては[合理的理性についての論争や倫理的議論に決着をつけることではなく]ノーマルな形式の分析が問題だとするのなら、「リスク」という概念の精緻化が必要であり、そのためには全体社会のシステムのなかで「リスク」が重要視されてきている理由が問われなくてはならない。この問いについての本書のテーゼは次の通りである。
「全体社会の未来がますます決定に依存するようになり、また、この未来表象がいよいよ支配的になった結果、起こり得る諸可能性を自然というかたちでおのずから限定する『本質形式(Wesensformen)』の考え方がことごとく放棄された」(14)
このような分析においては「決定」と「技術」の概念が重要な役割を果たす。
なお、ここで決定というのは意識(という全体システムの環境)ではなく、あくまで全体社会におけるコミュニケーションとして把握され、技術については、コミュニケーション技術と、コミュニケーションの主題としての技術という点で焦点が当てられる。


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