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『HUGっと!プリキュア』:「応援すること」について

HUGっと!プリキュアにかんしては、少し前に若宮アンリについて語ることの難しさについて記事を書いた。

そこではジェンダーの観点から――その語りにくさを回避して――どう語ることができるのかを書いたつもりである。今回はジェンダーの観点から離れて作品(特に42話)を鑑賞したときに何が見えるのか書いておきたい。これは端的に「ジェンダーの話ばっかりしたけどHugプリは他にもたくさん面白いところあるよ」と言いたいがために書いているだけである。

番組のキャッチコピーが「なんでもできる!なんでもなれる!輝く未来を抱きしめて!!」であること、主人公の変身時の名前が「キュアエール」であり、キャラデザのモチーフがチアリーディングであることなどから、本作では「応援」が重要なテーマであることは明白である【註1】。そして本作の中ではしばしば「応援」する場面が出てくる。42話でもキュアアンフィニの登場のきっかけの一つはアンリに対する野乃はな/キュアエールからの「応援」だ。

いきなり自分の話をするのもどうかと思うのだが、私は「応援」というものが苦手だ。応援するのもされるのも居心地の悪さというか、何か引っかかりを感じてしまう。とくに、自分の中でこっそり思っているだけならまだしも、相手にそれを伝えるというのはとてもハードルが高く感じられる。HUGっとプリキュアの序盤で若宮アンリは野乃はなに対して「応援なんて誰にでもできる、無責任なことだ」と言っていた。だが、果たしてそうだろうか。きっとそうではないし、42話時点ではアンリも違う考え方をしているだろう。応援するということがどういうことなのか、またハードルを感じるとすればその困難さとは何なのか。以下ではこういった観点から42話を中心にHUGっと!プリキュアについて思うところを書いていきたい。

「応援」というコミュニケーションの困難さ

「応援する」ということはどういうことなのか。作中での言葉を借りながら一言で言うならばそれは「なりたい自分になるための翼を授ける」ということだ。42話でのアンリの発言から、キュア「エール」という名前には英語の ’yell’ つまり「応援する」という意味とフランス語の ‘aile’ つまり「翼」という意味が込められている。応援とはなりたい自分になりたいと思っている人に、そのための後押しをすることである。

しかし、応援はする者とされる者の双方に大きな負荷をかけるコミュニケーションでもある。応援されることがプレッシャーに感じる、ということは割と多くの人が経験したことなのではないだろうか。また、本当は何かをやめたいと思っているのに、応援されているからといってやめづらくなる、ということだってあるだろう(それは続けるための力になっている、とも言えるのだが)。応援を受ける側は、その期待に応えなくてはいけない、という責任を負わされるのだ。


おそらく、若宮アンリはフィギュアスケーターとして「応援される立場」に何度も立ってきたであろうし、その負担というのも感じてきたのだろう。とくに、足の怪我を抱えてもう選手生命が長くないことがわかっているのに、他人から「未来を約束された」スター選手などと言われて応援された時には――アンリは大抵の場合クールに受け流すのだが――いらだちを覚えていたとしてもおかしくない。こんなことを考えると、野乃はなに対してかなり辛辣な言い方をアンリがしていたのは別にアンリが意地悪なわけでもなんでもなく、アンリの経験に根づいた言葉だったのかもしれないと思えてくる。

応援は無責任か?

応援する側に目を向けてみよう。アンリは当初応援なんて誰にでもできる、無責任なことだと言っていた。しかし、「応援する」ということは必ずしも期待された通りの結果(応援された人がそれを力に変えて何かをうまく達成する)をもたらすとは限らない。いや、下手をすれば応援をしたことによって相手を縛りつけてしまう可能性すらあるのだ。もしかしたら多くの人はこんなことを考えずに応援しているのかもしれないが、しかしこのことを考えた時、「応援する」というのは決して無責任な行為ではない。いや、究極的には責任の負いようがない(「応援されたからうまくいかなかった」などと言う人はいないだろう)、という意味では「無責任なことをあえてする」責任を負わなければいけない。別の観点から言えば、「応援する」という決定をした時点で「リスク」を発生させる行為と言うこともできるかもしれない。こう考えた時、応援は無責任なことであると言えなくなる。

応援は誰にでもできるのか?

もう一つ、応援は誰と誰の間でも成立するものではない。少なくともHUGっと!プリキュアの中ではそのように描かれているように思う。例えば、薬師寺さあやがキュアアンジュに初めて変身する第2話を思い出してみよう。さあやはわからないことは自分で調べて探求したり、いろいろな良いところがある人物であるにもかかわらず、自己肯定感の低い子どもだった。これには家庭の事情などいろいろあったのだが、はなとさあやはお互いに相手が自分にはない良い部分があることを認め合う。そこで初めてさあやは自分に自信をもつきっかけを得る。だからこそ、はなからエールを受けたときにさあやは「私にもできるはず」と強く思い変身し、知恵を生かして戦うことができるのである。重要なのは、応援を受ける側が自分自身を信じられるということ、そして応援する側との間に信頼関係があることだ。わりと陳腐なことを言っている自覚はあるが、意外に重要なことでもあるし、42話にもかかわってくる。

42話でアンリは自己によって自らの望まないかたちで選手生命を絶たれて絶望する。もはやなりたい自分をつらぬき通すこともできなくなり、アンリを支えていたものが失われる。そして敵陣営のクライアス社に取り込まれて未来を否定し、結果的に自らの絶望から生み出された怪物によって多くの人に危害を加えてしまう。そんな中でキュアエールはアンリに「なんて声をかけたらいいのかわからな」くなる。この時のアンリは自己肯定感を失い、なりたい姿も見失っている。先述の応援することの「責任」を考えればエールが何も言えなくなってしまうのはしごく当然のことだっただろう。

だからこそ、はなの「応援」の最初の言葉は「アンリくん、あなたはどんな自分になりたいの!?」であったのだ。この呼びかけに対してアンリは「みんなを笑顔にすること」と応える。クライアス社に利用されて自分のスケートを見にきてくれていた人々に危害が加えられてしまっている今の自分を顧みて、アンリは「こんなの僕のなりたい若宮アンリじゃない」と叫び、なりたい姿になるためにエールに「応援」をしてくれと頼む。


今までの自分ではいられなくなり、なりたい自分さえも見失っていたアンリと、それに対して――けがを治すことはプリキュアであっても不可能であるがゆえに――何もできない野乃はなとの間で交わされる「応援」というコミュニケーションはとてつもなく困難なもので、応援すること、応援を求めることのいずれも大きな勇気を必要とするものだった。42話のキュアアンフィニ誕生のシーンが感動的であったとしたら、それはこのような局面で2人が見せた飛躍に心打たれたのだと思う。それは決して誰にでもできる簡単なことではないし、無責任なものでもなかったのだ。

おまけ

最後に、おまけとして書いておきたいことがある。HUGっと!プリキュアはおよそすべての人にとっての「応援」足りうる作品であると思うし、子ども向けアニメとして素晴らしいものをたくさん持っていると思う。他方で、「なりたい自分を見つけてそのために努力する」ことに駆り立てられているような不穏な感じを受ける部分もある。もちろん、「なりたい自分をみつけてそのために努力する」ことは決して否定されるべきではないし、基本的にはよいことである。そしてHUGプリは前期EDの歌詞や19話、41話に象徴されるように、「なりたい自分」を制約するもの――その重要な一つがジェンダー規範である――に挑戦しているという点で「応援する」ことの責任にある程度自覚的であると私は思っている。

だが、「なりたい自分をみつけてそのために努力する」ことが良いこととされるのは他方で、そうはなれない人にとってはプレッシャーとなりうる。この点を考えた時、初代プリキュアの良さが思い出される。主人公のなぎさはあんまり根詰めて頑張るタイプの人間ではない。良い意味での「適当さ」のあるキャラクターであった。そして「将来の夢」というキッズアニメでありがちなトピックに話が及んだ時にもなぎさは明確な答えを出していない。それでもよいのだ、ということが示されていたと思う。初代にはそういうよい意味での「ゆるい」雰囲気が漂っていた。こんなことを考えてみると、HUGっと!プリキュアと初代のふたりはプリキュアが映画で共演したことには大きな意義が――もちろんほかの観点からも――あったように思う。
ということでまだ映画観ていない人はぜひ観てね!

【註1】実は放送前、筆者は「仕事」と「育児」がテーマでさらにモチーフが「チアリーディング」であることを知った時点で猛烈に嫌な予感がしていた。というのも、スポーツの世界ではしばしば女性は「景気づけ」のために「応援」に動員されたりするし、男性のサクセスストーリーでは「妻が献身的に支えて云々」という紋切り型の話がされたりする。きわめて性差別的な発想につながりやすいのでドキドキしながら第1話を見ていたのだが、第1話で野乃はなは敵を前にしてはぐたんや妖精のハリーを置いて逃げるようにハリー自身に言われるが「フレ!フレ!私!」と言って立ち上がり逃げろという声に対して「そんなの私がなりたい野乃はなじゃない!」と言って変身する。シリーズの最初の話が「フレ!フレ!私!」であったことは上記の事情を踏まえればそれだけで素晴らしいことだろう。また、自分自身を応援する、という行為は簡単なようで簡単ではない。他者からの応援を受け取ること以上に、自分自身を信じることができなければできないことだ。はなは後のエピソードでいじめられていた友達をかばったがゆえにいじめの標的にされ、学校に行けなくなった経験を持っていることが明らかにされる。そのときに、母親から「あなたは絶対に間違っていない」と抱擁=ハグをされたことによって立ち直るのだが、きっとこの経験なくして自分自身を信じることも、「フレ!フレ!私!」と言うこともできなかっただろう。
なお、これは蛇足だが野乃はなの自己肯定感を支えているのは「母親」だけではない。「父親」もまた、はなを抱きしめるシーンはあるし、他者(例えばルールー)とのかかわり方で悩んでいるはなに少しだけアドバイスをして見守るといった姿も描かれている。

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