ルーマン『リスクの社会学』第3章メモ

1 意味の三つの次元

有意味的な観察と記述の三つの次元について
• 時間的次元:「何かが事前/事後という区別によって観察される場合には、時間的次元が利用される」(69)
• 内容的次元:内容的次元は「何か特定の者についての指し示しの際に前提とされる区別による観察」を可能にする(69)
• 社会的次元:「自我と他我の区別が利用される場合に、他の二つの次元から区分される観察の仕方として成立する」(69)

本書において時間拘束という概念は、「システムの継続的な自己更新というオートポイエティックな過程の中での構造の発生を意味し、それゆえ少しの間持続する事実的な諸状態(原子、太陽、オゾンホールなど)の成立だけを言い表しているのではない」(70)
そして「時間拘束は、[構造の発生のために?]内容的な意味と社会的な意味を必要とし、したがって〔内容的次元では〕諸形式を変化させ〔社会的次元では〕社会的な配置にも影響を及ぼす」(70)


2 法における時間拘束


「期待は、規範をとおして[未来へと投射され、また再任されることで]安定化する」(71)。とくに規範についての違反は「規範を実行し確証するためのきっかけとして、当該の期待を圧縮し再認している」(71)

本章での問いは「内容的観点や社会的観点での固定化」がなされなくとも[逸脱と同調の双方が起こりえ、他我と自我の間で規範図式についての合意がない場合でも]期待の一般化がなされうるのかである。

法システムは純化を重ねて意味内容の点でも実践面での帰結においてもさまざまな区別を発展させ、「自己変動によってのみ外部から変化させられうるという意味で、自律的になる」(74)。しかしこれは自我と他我の間の社会的な裂け目をもたらす規範の剛性という前提条件を変えることはない。
そして法システムの社会的次元に関して銘記すべきことは、「いっさいの時間拘束は社会的コストを有している」ということである(75)[それゆえにこそフリーライダーといった問題が生じる]

「リスクの場合に問題となっているのは、〔法のように〕他者が未来の状況下でどのように行動すべきかを現在の時点ですでに確定させることの可能な未来、などではまったくない」(76)
しかし、今日、決定の根拠づけのさいに頻繁に支持される「結果志向」は法に対する過剰な要求をもたらす。つまり、加害者にリスク計算が課され、従来の合法/不法という明確に区切られたコードが接触することになる[責任法により合法であるにもかかわらず責任を負わされるなど]。


3 稀少性と時間拘束

「稀少性の場合の時間拘束[貨幣経済?]は、法の場合よりもさらに強く、社会的な緊張という代価を要する」(80)。なぜなら、ある人びとにとって稀少性の程度が小さくなるということは、それ以外の人にとって稀少性が増大するからである。
稀少性のパラドクスは所有権概念の中に入り込んでおり、所有権を「取得」「譲渡」「移転」できることが所有権の主たる意味となっている。これにより、所有権という制度は「貨幣経済に適合するものになり、特殊経済的な合理性が成立する」(81)

規範と稀少性の時間拘束によって「法の国家化による規制潜勢力の著しい拡大」と「所有権の貨幣化による経済的可能性の同じく著しい拡大」がもたらされた(82)。そしてこれらは政治的権力の法治国家としての再定式化、所有権の形式の流動化という第二のコード化を動員している。
また、「リスク政策もまた法的な手段や貨幣的手段の行使と関連付けられるようになっている」(82)


4 リスクと時間拘束

リスクの時間拘束についてのテーゼは次の通り:「リスクの時間拘束の形式は新たな種類の状況に反作用しているのであって、そこでは時間的次元と社会的次元の緊張関係が新しい問題を提起している」(87)

この新しい問題とは何か。[未来の不確かさに関わらず起きている]決定への依存の強化はファースト・オーダーの観察者とセカンド・オーダーの観察者のパースペクティブの分離をもたらす。そして、「未来が決定に依存したものとして知覚され、したがって決定がリスキーなものとして知覚されるようになればなるほど、こうした視角の分離が大きな影響をもたらすことになるだろう」(87)
また、コミュニケーション過程に参加する人々はつねに同時に行為し観察しているため、この分離はコミュニケーションによって解消されずに再生産されていく。


5 リスクという時間拘束の形式の特徴

法や稀少性の時間拘束に対して、リスクの形式は「現在という時点を、未来的現在〔=未来に現実化するであろう現在〕によって将来確証されたり将来否認されたりしうる形式へと変えていく」。このような現在化された未来は「そのものとしては決して生起することのない仮構的な形式に、つまり蓋然的/非蓋然的という形式にされる」(90)。
蓋然性というメディアの中で諸形式を固定させるのは[誰も未来について知らないからこそ]比較的容易であるが、この容易さは「合意を達成したいと思っている人にも、またそれと同程度に、不合意をコミュニケーションにしようとする人にも与えられてい」るために合意や了解は容易とはならない(91)。

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