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来たる者と去り行く者の交差点:①サーキット編――モナコが残り、フランスが消え、ラスベガス登場

夏休みからイタリアGPにかけてはドライバー人事や来季カレンダーが発表されるのが恒例だが、今年は特に大きな発表が相次いだ。数々の発表から『来たる者と去り行く者』に焦点を当てて振り返りたい。第1回はサーキット編。

私情では「モナコが残ってよかった」23年カレンダー

9月21日に史上最多の全24戦となる来季F1カレンダーが発表された。

史上空前、24戦のF1カレンダー

私の感想は『モナコGPが残ってよかった』の一言に尽きる。

F1が始まる前の1929年に第1回大会が行われ、90年以上の歴史と格式があるモナコは、特例としてフォーミュラワン・グループへの開催権料の上納を免除、あるいは減額されてきた。しかしながら中東や米国など多額の上納金を得られる開催地が増えるにつれて、モナコへの風当たりが強くなる。一時は「仏ニースに新設される公道コースに差し替わる」とも報道された。

結局、モナコは2025年までの開催契約延長が決まった。F1グループのオーナーである米リバティ・メディアといえど、開催権収入を数十億円積み増すためにF1界の華となる1戦を捨てる真似はしなかった。もっとも、開催延長交渉はかなり際どく、アルベール2世公が仲裁に入り、最後はモナコの主催者側が相当譲歩したようだ。

(※なお、F1がモナコから去るとの報道があったとき、私は「かわりにスーパーフォーミュラをモナコで開催すればいいのに」と思った。『モナコGP』の名をフォーミュラEやF2にくれてやるのはもったいない)

モナコ存続に安堵する一方で、ネット上で『モナコGP不要論』が決して少なくないことを痛感した。『追い抜きがなくつまらない』『全長・全幅が広がった今のF1で走るのは時代錯誤』との声もあり、果ては『モナコ公室なんて、そんなにありがたがる存在じゃない』との意見まであった。92年のセナとマンセルのバトルで強烈な印象が残り、毎年モナコの景色を見るたびにワクワクする私のような人間にとっては、このような声は時代の変化を感じた。

確かにモナコは狭く曲がりくねり、決勝での追い抜きはまれだ。しかしながら、予選の比重が圧倒的に大きく、セーフティーカー(SC)の出動率も高い点では、シーズンの「エクストリームな存在」として戦術面で異端な発想が求められる。今年のペレス優勝を決定づけたタイヤ交換作戦も然りで、追い抜きはなくとも終盤の4台のバトルは見応えがあった。こうした意外な展開、意外な勝者が生まれるのもモナコの楽しみだ。

25年までの開催契約延長が決まったモナコGP

サーキットの個性はあっていい。モンツァがあり、シルバーストンがあり、鈴鹿があり、ハンガロリンクがあり、バクーがあり、そしてモンテカルロがある多様性こそがF1の醍醐味だ。マリーナ沿いのサーキットという点ではシンガポールやアブダビ、コースの狭さではジェッダもモナコに近い部分はあるが、晴天での景観の素晴らしさでモナコに並ぶ存在は現れていないと感じる。

追い抜きの困難さはいまに始まったことではなく、2016年以前のナロートレッドの時代も、再給油可能な09年以前のショートホイールベースの時代も、雨でなければ追い抜きは困難だった。モーターレーシング草創期から連綿と受け継がれた狭苦しい市街地コースを現代のF1が走る。それもデモランではなく本気で勝負する。そのバカバカしさこそが「貴族の遊び」から始まったこのスポーツの本質ではないか、と思うのだが、どうだろうか。

なお、単に狭くて超高速で危険なコースを無理やり新設してスペクタクルを演出するのは、ただの「蛮行」と感じる。歴史の重みがあり、ヒト・モノの両面でコースの魅力や安全性を高める努力を怠らないからこそ、モナコは「華」があるのだ。追い抜きを可能とするためのコース変更の余地はあるだろうが、モナコはなくならないでほしい。

思い出はあれども、迫力に欠けたポール・リカール

一方で、来季カレンダーからフランスGPは外れることとなった。欧州の伝統的なグランプリが復帰する、との触れ込みで18年にポール・リカールがF1に戻ってきたが、わずか4回の開催で幕を下ろす(20年は新型コロナ問題により中止)。

このサーキットでは21年にフェルスタッペンがメルセデスのお株を奪う2ストップ作戦を決行、新品タイヤを履いた終盤にボッタスとハミルトンをパスして優勝したことが記憶に新しい。ただ勝つだけではなく、コース上のバトルとピット戦略の両面で初めてメルセデス勢を打ち破った記念碑的なレースだった。

ポール・リカールの空撮写真。アスファルトで敷き詰められた広大なランオフエリアが目立つ

一方で、このサーキットは一時テスト専用コースとして造り替えられたこともあり、今ひとつ見る者への迫力を欠いた。コース外側にアスファルトで敷き詰められた広大なランオフエリアがあり、特殊舗装によってタイヤにダメージを与えることはあっても、クラッシュを誘うドライバーへの威圧感は小さいように見えた(もっとも、今年のルクレールはバリアが比較的近いターン11でクラッシュした)。

このサーキットが迫力を欠くもう1つの要因はミストラルストレートの真ん中に設けられたシケインにもあると思える。シケインなしのミストラルは全長が1.8キロあり、バクーの全開区間が2キロあるとはいえ常設コース最長のストレートとなるはずだった。DRSがなくても存分にスリップストリームが効いたことだろう。安全性確保や追い抜きを促す意図ではあろうが、なぜ、このコースの代名詞ともいえるストレートを真ん中でチョン切るという無粋なことをしたのか。

セナの事故死以降、「高速区間はとにかくシケインを作って減速させる」方式がはびこった。しかし、ホームストレート手前のシケインを撤去したイモラが一昨年にカレンダーに復帰し、アルバートパークやヤス・マリーナも昨年に一部のシケインが取り払われたことを考えると、やや流れが変わったと感じる。ドイツGPの定期開催の音沙汰がないのはホッケンハイムもニュルブルクリンクも去勢されて見どころを失った影響が大きく、ベルギーGPが存続するのは「コースがスパ・フランコルシャンだから」というのが最大の理由だろう。

現代F1でこれだけサーキットの種類が増えると、「このコースにしかない名物」となるコーナーなり景観なりが、少なくとも1つ必要だ。契約面の裏側は知らないが、サーキットの特色という点でポール・リカール脱落に違和感がないのは、「ここにしかない魅力」が薄いためと感じる。

(※「シケインがあるおかげで個性がなくなったポール・リカール」の箇所は異論はあるだろう)

ラスベガスGPでF1はアメリカのすべてを奪い取る?

そして、23年に鳴り物入りでカレンダーに加わるのが「ラスベガスGP」だ。米国で3つのグランプリ開催は82年以来、41年ぶりとなる。

本記事で「モナコGPに並ぶ雰囲気を持ったコースはない」と書いたが、ラスベガスのきらびやかなカジノ街をナイトレースでF1が疾走する姿はさぞかし絵になるだろう。もっとも、地中海と陽光をバックにしたモナコとラスベガスは対をなす存在で、むしろコースの雰囲気が被るのはシンガポールだと思われる。

ラスベガスGPのコースのイメージ図。シーザーズ・パレスやベラージオ近辺を周回する

F1はラスベガスGPの開催により、米国のオープンホイール・レーシングの市場すべてを奪い取ろうとしているのかもしれない(インディ500は無理としても)。

リバティ・メディアのF1への資本参加による最大の功績は、これまで「F1不毛の地」とされた米国での人気を飛躍的に高めたことだ。

リバティの参加当初は「米国人にF1を運営できるわけがない」と高をくくっていたが、コンテンツ面では接近戦をしやすくする空力規定の改善とバジェットキャップによるチーム戦力の均一化、および米国でのグランプリ増設に着手。プロモーション面ではSNSメディアでの露出解禁やF1ドキュメンタリーの配信など、打てる手を打ってきた。コロナによる巣ごもり状態で、ネットフリックスの利用が飛躍的に伸びたこともF1の認知向上の追い風となった。

米国のF1人気の高まりは、中継の画面を通しても伝わってきた。00年代のインディアナポリスや初期のサーキット・オブ・ジ・アメリカズ(COTA)の観客席は単に「お祭り好き」の人たちの集まりに見受けられたが、昨年はピットストップ作戦の違いやドライバーのキャラクターを理解した目の肥えた観衆の声援が送られた。

今年初開催されたマイアミGP

このアメリカのF1ブームはインディカーの逆風になると思われる。インディ500単体は今後も人気イベントの座は揺るがないだろうが、年間シリーズ全体でみたときに注目が維持されるかというと心もとない。

もともとトニー・ジョージ率いるIRL(現インディカー)が96年にCART(旧インディカー)と分裂して米国のオープンホイール・レースが凋落し、NASCARに持って行かれた人気が今も戻っていない感がある。ロジャー・ペンスキー氏のオーナー就任による立て直しも道半ばだ。

「インディカーといえばオーバル」という特色もあるが、インディ500を除けば集客はいま一つ。オーバルレース自体がシリーズ17戦中、5戦に減ってしまった(アイオワはダブルヘッダーのため、サーキットとしては4カ所)。

リバティ・メディアは米国でのF1人気を地元のインディ関係者に還元してやる気はさらさらないようだ。アンドレッティ・オートスポーツのF1参戦が認可される気運はなく、ハータのF1デビューもデ・フリースの衝撃的なF1デビューによって立ち消えとなりそうだ。

F1は「ラスベガスでのナイトレース」という、インディカーがそう簡単には対抗できない超目玉コンテンツを手に入れた。05年の「タイヤゲート」のようなF1側の失着でもない限り、インディカーは話題作りで厳しくなると感じる。

狂気の24戦カレンダー、ドライバーにもローテーション制が必要?

それにしても年間24戦とは狂気の沙汰だ。ざっくり年間52週の半分近くでF1が開催されることになる(!)。それもオフシーズンや夏休みを考慮しない数字だ。

3週連続開催もエミリア・ロマーニャ⇒モナコ⇒スペインと、アメリカ⇒メキシコ⇒ブラジル、の2回ある。新設のラスベガスGP決勝が22時スタートの深夜作業となり、地球の自転の逆向きに進むアブダビへの移動はメカニックに相当の負荷がかかるだろう。たとえラスベガスのレースが土曜開催だとしてもだ。

もっとも、21年終盤の3週連続開催でメキシコ(北米)⇒ブラジル(南米)⇒カタール(アジア)の3大陸を回り、カタールは初開催国であるうえ当時は新型コロナで渡航規制も厳しかった、という悪条件をクリアしたF1各チームの実績を見てしまうと、F1のロジスティックスの過酷さに対する感覚が麻痺してしまう。おそらく、24戦あっても彼らはクリアしてくるだろう。

史上空前、24戦のF1カレンダー

問題はドライバーだ。そろそろ『年間参戦レース数の上限制』を設けてもいいような気がする。トップチームはメカニックやスタッフをローテーション制にしていると聞くが、それをドライバーにも採用するのだ。

例えば24戦のうち1人のドライバーが参戦できるのは22戦前後を上限とし、残りはサードドライバーが参戦する。レギュラードライバーは骨を休める期間が確保され、若手ドライバーにも実戦のチャンスが巡ってくることになる。

有力ドライバーに休まれる開催地の主催者やファンはたまったものではないだろうが、20年サヒールのラッセルや今年のモンツァでのデ・フリースのように、それを補う形で新たな新星が話題を集める可能性もある。これを書くと「NASCARはオールスター等も含めると年間40戦近くを開催しているじゃないか」との意見も出そうだが、さすがに同列で比較できないと思う。

MLBやサッカーは選手を戦略的に休ませてシーズン全体の戦いを重視する。大相撲だって横綱や大関は何かと理由をつけて休場してしまう(笑)。

F1で参戦レース数の上限を設けた場合、ポイント争いが分かりづらくなったり、マシンの特性に合わないコースを優先的に欠場するなどの弊害は出てくるだろう。あるいは、F1グループがサーキットやテレビ局と結ぶ契約でレギュラードライバーの全戦参加の担保が義務付けられている可能性もある。

それでもレースを戦うのは生身の人間である以上、24戦のレース数はローテーション制にしないと回らない領域に入ったような気がする。

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