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オーストラリアで出会った、東京生まれ育ちの80歳の女性と赤とんぼ

大家族フォーサイス家のマミーです。

オーストラリアでは、11月といえば春真っ盛り。翻って日本は、秋真っただ中ですよね。オーストラリアの秋は3月、4月かな。

日本にいるとき、いつも私に秋を感じさせてくれていたのは「赤とんぼ」です。赤とんぼを見つけると、自然に童謡の赤とんぼのメロディが浮かんできてジーンとしてしまいます。

オーストラリアにも赤とんぼがいます。なぜか、オーストラリアでは日本のように昆虫がたくさん目につかないんですが、1年に一度くらい、秋になると見かけます。赤とんぼを見ると私は、ある人を思い出します。その人は私と赤ん坊の右京の前で美しい声で赤とんぼを最初から最後まで歌ってくれました。

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(赤ん坊の三男・右京)

私がエイミーさんと会ったのは、1995年3月の終わりごろでした。クイーンズランド州のトウンバという街のナーシングホーム(養護老人施設)にエイミーさんは入所されていたのですが、ホームの職員の方が私が日本人だと聞いて「うちにエイミーさんっていう80歳で目が不自由な方がいて、彼女は日本に住んでいたことがあるらしい。どうか彼女を慰めにホームに来てくれないだろうか。」と連絡してきました。私は3月5日に第四子の右京を出産したばかりで ちょうど猛烈なホームシック(日本恋しい病)にかかっていました。英語でも日本の話ができるのは嬉しいなあと思って、英語力には不安が多々ありましたが、すぐにエイミーさんに会いに行きました。もちろん生後数週間の右京も一緒です。

エイミーさんの部屋に案内されて、そこでエイミーさんに会ったのですが、私が日本人だと知ると、「あら、そうなの。懐かしい話がたくさんできるわね。うれしいわ。」と本当に嬉しそうに私の方に顔を向けて完璧な日本語で話されました。「エイミーさんは日本に住んでいたんですか?」と聞くと「私は日本で生まれて育ったのよ。」という返事でした。

私が今、生後数週間の右京を連れて来ていて、右京の父親はオーストラリア人だと告げると「あら、私と一緒じゃない。私も父親がイギリス人で母親が日本人なのよ。」と楽しそうに話してくれました。私は、「うわあ、80歳のエイミーさんのご両親が国際結婚!!!!!!!!!!!」度肝を抜かれました。

それから私は思いつく限りの質問をしてみました。今ここで、私が覚えている全てのエイミーさんの言葉を書いておきたいと思います。もう26年も前のことですから記憶も朧げになっています。

私の母の名前は、つねこ、父の名前はエドワードよ。私は6人兄妹の末っ子なの。関東大震災があったのは私が7歳の時だったわ。走って外に逃げたの。本当に怖かったわ。父は英語教師だったの。父は私たちが家で日本語をしゃべるのを本当に嫌っていたわ。私達兄妹は日本語をいつもしゃべっていたんだけど、父の足音が聞こえると、わざと大声で英語をしゃべって 父がいなくなってから みんなで顔を見合わせて、また日本語でしゃべっていたわ。
私はオルガンを弾いたり歌ったりするのがとても好きなの。子供のころ、私がオルガンを弾いていたら叔父が「おや、うまいじゃないか、もっともっと、聴かせてくれ」ってよく言ってくれたのよ。私は少し恥かしかったけど、叔父は音楽家だったから、褒められてとても嬉しかったわ。叔父は、私の両親ととても仲が良かったから 家によく訪ねて来てくれていたの。

私はエイミーさんに何か歌っていただけませんか、とリクエストしてみました。エイミーさんは 「じゃあ、叔父が作曲した歌を歌うわね。」と言って

夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か
山の畑の桑の実を小籠に摘んだはまぼろしか
十五で姐やは嫁に行き お里の便りも絶え果てた
夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先

美しく張りのある声でした。

それから6か月後にエイミーさんは亡くなってしまわれました。私はエイミーさんと日本語で会話した最後の人間となりました。私は一生、あの時の情景を忘れません。エイミーさんの美しい声も忘れません。

音楽の教科書でしかお目にかかれない作曲家、山田耕作の姪に当たる方と直接会い話をし、楽しい時間を共有できたことを私は一生の宝として思い出に残します。

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