私は何か名前のあるものを持っているが、他人には見えない。私がそれを持っていると言えば、他人はその正体に気づき、同情の目で見るだろう。

名前のある何かを持っていると言わなければ、その人は私の長所を長所とし、短所を短所として認識するだろう。

しかし、私が何かを持っていると言えば、私の長所を個性と捉え、短所も個性だと言う。

人は何かにカテゴライズされた人間を見た時、その人をカテゴリーでしか認識しない。同情でしか物事を語らなくなる。私はそういう時に、自分の持っているものが嫌いになる。

だけど、私の持っているものは言い訳にも使える便利なものだと思う。自分が実生活で困ったり、出来ないことがあると、それのせいにできるから、押し付けられるからだ。持っているものだけに限らない。家庭環境だって私の思い出の中では嫌な記憶に過ぎないが、逃げる時には言い訳に使える。

あの時、こうやって出来なかったな。この時、なんでこう出来なかったんだろう。なんで私は他より幸せじゃないんだろう。

この全てを私は家庭環境と自分の持っているもののせいにして生きてきた。
だけど自分にとってのいい思い出は、持っているものと家庭環境のおかげだと言わずに、自分が頑張った結果のものだと言い張っている。

インターネットを見ていると、私より家庭環境が劣悪な人間はたくさん見る。だけど、みんな頑張って前を向いている。友達だっている大学だって通っている。私と同じものを持っている人も何かを成し遂げているし、友達もいる。

私は全てにおいて何かのせいにして逃げている、今も。お金がないのも、自堕落な生活ばかりなのも、全てにおいて自分の責任なのに、息苦しいと甘えたことばかり呟いている。常日頃、まさにこのノートを書き留めている今も、怠惰である。どうすれば抜け出せるかも分からない。

でも、そんな私にも好きなものがある。それは語学勉強だ。私は高校に入ると同時くらいから語学勉強を始めた。私は言葉が好きだ、海外に好きなアイドルがいるからではない。

私が現実で出会った大人は全員語彙があって、言葉で私をどん底から引き上げてくれたからだ。一時保護所の職員だって、高校の部活の顧問だって、私を否定しなかった。親族の恋人たちから普通ではないとか、頭ごなしに怒られて、意気消沈していた私を認めて褒めてくれたから。もし、褒めてくれたことが世間で言うお世辞でも、私の中の生きる活力となっているから、嘘でもいいと思う。

特に感謝しているのは、私に韓国語を教えてくれた高校の先生だ。あなたは韓国語が上手だよと、何がなんでも言ってくれた。他の生徒がいても、あの子は上手いから、あの子に教えてもらってと、私を勧めてくれた。自信がついた。はじめてもっと頑張ろうと思えた。

きっとこれからもずっと私は何かを言い訳にして生きていくと思う。

でも他人には、私の人生で起こった悪いことのせいにして生きていない。私に起こったこと全てに感謝している。と、嘘をつくはず。この嘘がいつか本当に思えるようになると信じたいから。死ぬ前には、本当に本心でそう思えるようになりたいと思ってます。



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