私たちという概念

「私たち」とは何か。
『訂正可能性の哲学』を読んで。の可変性と愛らしさと憎たらしさを感じる。

日本ってクソだよねというと「いや主語がでけえよ」とか、東北って雪やばいよねというと、「いやいや、うちらは雪降らんし」とか、我々国民ほにゃらら!というとお前と一緒にすんんじゃねえよとか思うし。

いつもは主従関係で「敵」であるのびたとジャイアンが、映画になると連帯したり。仲間であるはずのドラえもんがのび太にお灸を据えるために不利益になることをしたり。
私たちってていうわかるようでわからない、時によりスコープが変わるフニャけた概念。
関西の人にとっては「東北」で括られるし、外部から来た人にとっては「福島」だし、行政にとっては福島12市町村だし、会津にとっちゃ俺らは浜通りだし、南相馬の民にとっては小高で原町で鹿島だ。そんで小高の民にとっては在とまちで、まちの人間にとっては1区2区3区4区なんだ。

言葉は便利だ。ことなるものの複合体である時も、概念の線でふんわりと見せかけにだけでも包めるから。

そんで、真に異なるもの同士が溶け合うことはできるのだろうか?そこは正直わからん。というか無理があると思う。
対外に対してのAは、内部にとってのAではない。 そこにはBとC とDの複合体としてのものでしかないんだ。内実無理やりくっつけても作用しにくいと思うんだ。

「あなたたち」をラベルに貼ってある評価をするとき、ラベルに貼る側こそが、「私たち」と「それ以外」という境界を作る。
常に入れ子の構造でしかないのにね。無自覚でやれらるのはつらいものがある。

なので頑張ろう日本!も東北で一つになろうというのも、めちゃくちゃ身近な例だと小高原町鹿島で南相馬だ!というのも、シビックプライド≒「私たち」をどこに置くのか?はなんだかむず痒いテーマだ。

起承転結がなくてすまんな。またこの話はまた。

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