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『不適切にもほどがある!』を観て海外留学を思い出すこと


『不適切にもほどがある!』は私が久しぶりに楽しみに観ている日本のドラマだ。

私はほとんど海外のドラマや映画ばかり観るが、このドラマは本当に面白いので欠かさず観ている。そしてついにに最終回を迎えたので、このドラマの間ずっと感じていたことを書いてみたい。


このドラマを好きな理由はたくさんあるが、まず私にとってクドカン作品といえば、何と言ってもIWGPだ。池袋ウエストゲートパーク。私が高校生の時、ものすごく人気だったドラマである。

あのドラマの面白さは、当時もずば抜けていた。だから今回この『不適切にもほどがある!』も、昭和と令和をタイムトラベルするという設定の時点で、なんだかとても面白そう、とワクワクしたのだ。もちろんその予感は的中した。


私がこのドラマを観ていてしょっちゅう思うのが、海外留学とタイムトラベルの共通点だ。(タイムトラベルはフィクションなわけだが)


昭和の教師小川先生は、現代の令和で言うところの「アウト」がとにかく多い人だ。野球部で「ケツバット」をしたりごく自然に暴言を吐いたり問題発言をしている。公共機関のバスの中でもタバコを吸う。

けれどこれらは全て昭和の時代はあくまで普通だったのだから、小川先生を責めるわけにもいかない。もちろん個人の性格もあって多少過剰かなと思うところもあるが、基本的には昭和ではそのへんにいるただのおじさんで、罪など全くないのだ。

令和にやってきて最初はその変化に驚くばかりの小川先生だが、どんどん時代に馴染んでいき、理解もしていく。その後昭和に帰ると、今まで何とも思っていなかったことに違和感を覚え「なんか違うな」ってなる。

その過程が、海外留学と非常に似ていると思う。

まさにIWGPを観ていた高校時代、私はタイに留学したのだが、驚くことばかりだった。タイの学校のトイレには紙がなくて、シャワーとバケツがあるだけのところもあった。最初は「?」と立ち尽くすばかりだったが、1週間もすれば慣れてしまった。

学食に行けば小さめのポリ袋に入った激甘のジュースを渡され、こちらも「?」と最初こそ思ったものだが、口の部分をしばってストローが入ってこぼれないようになっているし、小さくなって捨てられるしまあいいか、とすぐに慣れた。(マイペンライの精神)

そのへんの巨大スーパーで買った、タイでは一般的なシャンプーを使うやいなや、ダメージでパサパサしていた私の髪はとてもなめらかになった。
愛用して帰国してからも使っていたが、その後は日本のシャンプーにそれほど満足できなくなった。

タイ人は例外なくみんな小さなことは気にしなかった。おおらかで学校でもゆったりとした雰囲気の中みんな学んでいた。

けれど授業のキャンセルや先生の遅刻、予定の変更などでこちらはかなり戸惑うことも多かった。だが帰国すると今度は、誰も遅刻しないのはいいが、毎日ハプニングがなさすぎて、授業も淡々と行われてなんだかつまらないと感じた。

大人になり、香港に住み始めた当初は、薄着でグイグイと近づいてきて歩く、列に並ぶ時もくっつきそうなくらいの距離の近さの香港人にうんざりしたものだが、しばらくすると順応して自分も他人に対して距離をつめていくようになった。順番を抜かされないよう近くにくっついて並ぶことも時には必要なことだった。

帰国してみると、どこか図々しい態度になってしまっており、旅行者の中国人から同郷だと思われて(?)話しかけられることもあった。

日本に帰ってくるたびに、ドラマの中で昭和↔︎令和とタイムトラベルしてきた純子のように、「なんかもう、そういうのいいかな。」というある意味さめた、一歩引いたところから何かを見るような、なんともいえない不思議な成長の仕方をした。

「海外かぶれ」という言葉があるが、かぶれているといえばそうだろうし、そう見えることもあったと思う。ただ自分の中で何かが音を立てて崩れたり、ものすごい速さで造られたりするのだから、その変化から自分自身は目をそらすわけにはいかない。

全く違う環境に身を置いて順応するとは、そういう副作用的なものがあると思う。

イギリスに留学した時には、イギリス人だけでなくヨーロッパ人たち全般に言えることだが、目が合うだけでニッコリと笑う文化に、私はしばらくドギマギしていた。

女の子も男の子も同様に、ちょっとした時に目が合うとウインクしたり、極上のほほえみを投げかけてきたりする。

「これに慣れることはないだろうなあ」と思ったけれど、そんな私も仲の良い友達ができるとクラスの中で平然とやるようになった。そして街中でやるようになり、さすがに何年か住んでいると、目が合う人にニッコリ、は普通になった。

それは感情ではなく、どちらかと言えばマナーだった。

イギリスでトイレが時々壊れていたり便座がなかったりするのにも次第に慣れていった。日本のトイレはイギリスに比べるともはや未来の代物だった。

ロンドンではまともなトイレに入ろうと思えばたいてい有料だった。パブやナイトクラブになんぞ行こうものなら、トイレは壊滅的なほど荒れていたこともあった。

けれど私はいつまでも「日本のトイレはよかった」なんて言ってはいなかった。なぜなら人間はみな慣れてしまうからだ。

どんなトイレにも結局は慣れてしまった私だが、ロンドンではこぎれいなパブを見つけると、知り合いを探しているふりをして堂々と入っていき、トイレに滑り込んでいた。慣れて余裕が自分の中に生まれれば、自然と知恵が湧いてくるものだった。

『不適切にもほどがある!』でも、昭和と令和の時代を比べて便利になった部分、それに伴い失くしてしまった文化や価値観をうまく映し出している。

また、時代が変わって便利になったから全てが良いかというとそうでもなく、あるいは不便だった昭和の方がよかった事柄も中にはある、というのを「あるある」なエピソードで見せてくれるのも面白い。

私は最終回までこのドラマを観てみて、昭和にも令和にも良いところがあり、ただ同時に悪いところもある、という例を改めて感じた。

それは海外に飛び出していった時に驚く私たちの便利な国日本と海外とのコントラストに、非常に似ているのではないか、と思った。

日本が進んでいるとか遅れているというのでは決してない。

便利なものが登場するたび、私たちは最初は驚き興奮する、けれど次第にそれは当たり前になっていく。気がつきこそしないが、そこで失くしたものは簡単には戻らない。

こぼれ落ちていく人とのつながりだったり、ささいな会話というのは、意外と問題視されないまま、

いつの間にか消えていくのではないかと思う。


海外旅行に行くと、「そこは意外とアナログなんだ!」と驚いたり、「これは便利だ!日本にもあったら良いのに」と思うことが誰でもあるのではないか。

その違いを楽しんだり、うまく取り入れていくことで、便利さだけではない人の豊かさというのを追求できるのではないのかと感じた。

とりあえず、このドラマの続きがもう観ることができないのはちょっぴり残念だ。またぜひこんなドラマに出会いたいと思う。


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