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下手なnote記事よりmixi日記の方がよっぽど面白かったのに

ここに書くことは、あくまで紛れもない個人的主観である。note愛好家の諸君、どうか気を悪くしないでほしい。一種の懐古主義として、読み流してくれていい。

mixi日記は酒の肴になる


突然だが、結構な阿呆である私は、「昔のmixi日記を肴に酒を飲む」行為がすきだ。友人からは、趣味が悪いと注意される。かつての投稿主へスクリーンショットを送りつけては、叱られる。だが辞められない。仕方ない、面白いんだもの。
このたび、Nサロンなる意識高い系オフ/オンラインサロンに入会し、自分もnoteを書き始めてみた。タグで検索し、サロン仲間の文章を読み漁ってみた。自分の稚拙な執筆内容につけ、他人の理路整然とした記事につけ、正直なんだか違和感を感じている。その原因を模索したところ、自分が多感な時期をmixiで過ごした世代であるという事実に思い当たった。
そこで、mixiが超絶面白かった狐なりの理由を、「WORDS文章教室」の課題形式に則り、強く思う順に箇条書きであげていきたい。

1 文体に個性があった 


Webに文章があふれる昨今、所謂「まとめ記事」がもてはやされるようになった。得られる情報をタイトルで明示し、順番に羅列し、最後に改めてまとめる。どうやらこれがWebにおける文章の定型となっているようだ。個性は余計な情報と判断されるため、なるべく平易な短い文を心がけるのが作法だ。アフィリエイトの普及も相まって、目にとまりシェアされやすい記事が求められる。
たしかに、そうしたルールに則った方が、読みやすいのかもしれない。でも、素人が書く文章に、読みやすさなど求めているだろうか?あるいは、夏目漱石とて、福永武彦とて、村上春樹とて、木下古栗とて、現代の新文体(だと狐が勝手に思っている)植本市子とて…この辺でやめておこう。彼らの文章だって、決して読みやすい訳ではない。独特なリズムに始めはひっかかりながらも、それでも引き込まれてしまうのが、AI ならぬ人間が書く文章の醍醐味ではなかったか。
mixiは違った。もっと個性があった。ポエマーもゴロゴロいたし、小学生の夏休み日記みたいな人も多かった。極端に短いのも、異常に長いのもあった。かっこよくなくていい。読みづらくてもいい。荒削りななかに、煮染められた個性が溢れていた、あの独特な文体たちが恋しい…。

2 意識は低いが自意識は高かった


中高時代をmixiで過ごした私にとって、mixiでよく見る日記のなかに「失恋」をテーマとしているものがあった。
だがそれは、西野カナのように全てを言葉にするのではない。文章のベールに包み、「自分、失恋しました…悲劇の主人公です…」という悲哀をそこかしこからダダ漏らすのである。
良くあるパターンとして、ミスチルや19やらの「別れたけどそれぞれの道を歩んでいきます」的な内容の歌詞をのせ、意味深なタイトルをつけるのもの。(ここにおいて、著作権意識はゼロである。)または、想い人への恋文形式で綴り、限定公開するもの。この手の類は、他人の不幸は蜜の味というだけでなく、あとあと読み返した際には悶絶するほど楽しいものである。
同様に、人間関係をこじらせ、これまた公開を限定して、友人への募る想いや葛藤を綴る日記も読み応えがあった。学校だけが世界だったあの頃、友人と上手くやっていくことがどれほど大切だったかを、広く浅い人付き合いを楽にこなせるようになったいまでも、手に取るように感じられる。(なお私は友達がほとんどいなかった。)
読み手のことなど1ミリも気にしない、自意識の固まりみたいなあの文章たちは、TikTokなどに姿を変え、現代にもなお残存しているのだろうか?

3 mixiでしか知れない内容だった


Google先生に聞けば大概のことを教えてもらえる時代である。便利になった。効率的になった。ありがたや。その影響か、素人が書く文章についても、「知りたい情報か」「誰のどんな役に立つか」といったことが気にされるようだ。
一方、mixiの日記にあったのは、まったく役立たずな情報だ。たとえば、バイト先の先輩に告白された件。…知るか!はたまた、電車内からふと見た夕焼けがすごく綺麗だった件(写メ添付)。…普通か!でも、それは彼/彼女たちの生活をリアルに感じられるものだった。FacebookやInstagramにあるような飾られた内容ではなく、極私的な心情が、つまらないままに吐露されていた。それはmixiでしか触れられない内容であり、なーんだ普通じゃん、と安心もできた。こじらせていてる部分も、そのまま表現されていた。あの頃のmixiは、なんてことない役立たずな日々を肯定してくれる存在だった。ありがとう!

4 見栄えを気にしなかった


生活の中で、デザインが幅を利かせてきた。もちろん、デザインの力は偉大だし、文字ではない視覚情報の効果や問題解決能力は大きい。本の売れ行きだって、装幀の善し悪しで大きく変わる。
かたやmixi時代には、普通の人がウェブ上でデザインできる時代ではなかった。HTMLタグで絵文字やイラストを貼れたりフォントを変えたりはできたものの、シール的要素が大きかった。日記も、文章にせいぜい写真1枚というのが普通だった。フォーマット依存式だった。だからか、肩肘張らずにすっと文章に入れた。
いまや、内容よりもパッと見の印象で注目を引き、拡散されやすい形式が要求される。おしゃれであることが前提とされてしまう。悪いことではないのだけれど、そうでなくてはならない空気が、書く人を限ってしまっているのではないかと危惧している。

コンテンツを面白がる

むろん、noteはmixiの後継ではない。noteが取り込もうとしているのはクリエイター人間だし、mixiが書き手として想定していたのは普通の生活者だ。閉じられた仲間内で楽しむ「日記」と広く読んでもらいたい「記事」では、姿形も違って当然だ。対象も目的もコンセプトも時代も、なにもかも異なる2つを比べるのは馬鹿げているかもしれない。
だが、「コンテンツの面白さ」というのは、時代も形も超える物だとも思う。私もつい先日、「〇〇って小説がおもしろかったよ」と友人へ勧めたところ、「読まないよ、いまNetflixのゲイドキュメンタリーが楽しいから」とバッサリ切られたばかりである。国籍も媒体も内容も超え、本はNetflixに負けた。さもありなん。
興味の方向はひとそれぞれ、私が面白く読みたいのは「それっぽい文章」じゃなくて「その人らしい書き物」だ。mixiはそれを叶えてくれていた。


そんな愛しきmixiもいまは廃れてしまった。でもmixi面白かったという記憶は鮮やかに残るし、成人をまたぎ素晴らしい酒の肴ともなった。
飛ぶ鳥を落とす勢いのnoteも、あるいは全世界を席巻するNetflixだって、流行り廃りからは逃れられないだろう。だが、過ぎ去ったそのときに面白かったと言えるよう、Nサロンはじめ今特有のコンテンツを、食わず嫌いせず存分に楽しんでいきたい。

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