坐禅をしていて突然訪れた変化
坐禅を続けて、変化が訪れたので記録しておく。
前回書いた記事から幾月も流れていないのに、もう書くのかと。
そう思われた方もいるかもしれない。
しかし、変化は突然訪れる。坐禅に耐えられる時間が10分くらいに伸びたのだ。
前回は3分がやっとであった私にとって、これは劇的な変化なのである。
この変化はどのようにして訪れたのか。
それは、1つの本との出会いであった。
「弓と禅」である。
禅に興味が出てきた私は、その深い深層心理に憧れ、何か学びを得ることが出来る本がないかと、模索しながらも、この本に出会った。
この本は弓道を極めることは、禅を極めることと繋がる。といった本なのだが、そこに呼吸法について有益な一文があった。
禅をするときに何より大事なのは呼吸法である。
如何に呼吸に集中することが出来るか、その難題がずっと付きまとうのである。
集中するために呼吸を数える。呼吸を真摯に数えていると、やがて無心になり、呼吸のことしか考えられなくなる。まさに無欲の境地に近づくわけなんだが、私はというと、いつも意識は別のところに飛び立ってしまう。
そんな中、上記に記されているような文に出会ったのである。
吸う息、吐く息、しっかりと考えてリズムを保つことの教え。
天啓を得たかのように、私は上記の教えを愚直に取り組んでみるのだった。
これが意外に難しい。例えば、腹壁が程々に張るように、と書いてあるが、単純に息を吸うと、腹に息が入る感覚がない。
これは私が息を吸うのが下手なところもあるのかもしれないが、腹に入るというより肺に入っているような感覚に陥る。そして、腹は膨れず、逆に凹む。
無理に腹を張るように息を吸おうとすると、息苦しく、何よりリズムが悪い。
息を吸うだけで、これだけ難しいと感じるのに、とても驚くばかりである。
そして、その次は、試行錯誤しながら吸った息をゆっくりと吐くのである。
ゆっくり吐くのは意外と簡単である。ここは自分を褒めたくなる(誰でも出来る気がするが)
その後またもや問題なのは、次に息を吸うというタイミングの時である。
本の教えによると、「息を全て吐き切ってから、新しい息を吸いなさい」と記されている。私はそれに従おうとする。
吐き切ったな、と自分が思ったら、息を吸おうとする。この時がすごい恥ずかしいのだが、吐き切ったときには、既に息苦しい状態となっている。そして、早く次の息を吸いたいと思うばかり、吸う勢いがとても早くなるのだ。
勢いよく空気を吸いたいという欲に負ける。何だか恥ずかしい気持ちになる。
如何に冷静に、空気を吸うか、どんなに苦しくても、素早く空気を補充しようと思わないか。そればかり考えてしまう。
そんな葛藤の中、自分が納得いく呼吸を探していると、なんと簡単に10分くらい経ってしまうのである。
これが集中というのかは謎であるが、少なくとも「息」というものだけに集中しているのも確かである。
何はともあれ、私は、呼吸法を模索するあまり、坐禅の時間が極端に長くなっている。
これを変化の1つと捉え、ここに記録させていただく。
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