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流水を眺める

麗らかな春の陽射しの心地よさを感じながら、自然に身を任せ、静かに流れる時間。
最近は自然を満喫することが少なくなったが、私はそのような時間がとても好きである。

仕事で港の近くに行くことがあった。
予定より早めに目的地へ到着したこともあり、何かで時間を潰したいと考えた。

そして、せっかく港に来たので流水を眺めることに決めた。

水面を前に、そんな穏やかな時間を過ごすのが久しぶりであったことを実感した。
仕事の移動中ではあったが、ひとときの安らぎを感じる。

犬の散歩をしているマダムとすれ違いながら、スーツ姿にリュックを背負った中年男性が、しばし海を眺める。

揺れる水面(みなも)は、脳内での計算を拒絶するほど不規則に、そして複雑に絶え間なく波打つ。最近はゲームや映画で見られるCGでの水の表現も進化し、本物と見分けがつかないほどに滑らかに動くようになったな。などを考える。

だが、CGはまだ本物との見分けはつく。とても綺麗で滑らかだが、CGっぽい水の表現を脱していない。とも何となく思っていた。

しかし、ここで重大な事実に気付く。
実は私は、本物の水面をしっかりと集中して見たことなかったのだ。

不思議なことに、揺れる水面をずっと眺めてると「これCGっぽくない?」と思い始める。最新ゲームで見たそれと、遜色ないと感じられる。どうやら私はしっかりと、ゲームと本物の水の波打ちを比較したことが無かったようだ。

多分、ゲーム開発者はしっかりと、この水面の動きを観察したんだろう。
充分に観察をし、計算し、あの素晴らしい表現を作り上げ、そして「完璧な本物に近い水の表現が出来ました!」と我々に提供してくれていたんだろう。

なのに、何も見ていない私は「綺麗だけど、CGっぽいよね」と、自分の主観で感想を述べていた。見てもないのに。雑な感じに。

それがどれだけ正しく正確なものでも、見る人によって評価は変わってしまう。
育った環境や、それに付随する性格やモノの見方により、穿った色眼鏡でモノを評価してしまうことは、往々にしてあることなのだろう。

客観性を持つのは非常に難しく、生きる上で永遠に付き纏う課題なのかもしれない。
だけど、そんな課題と向き合いながら、純粋な眼で世の中と向き合いたいと思う。

そんな晴れの日の平日。

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