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障害のある次女と障害のない長女のこと

今日は、特別支援学校高等部の1年生の次女の誕生日です。

知的障害(B2)で自閉症スペクトラムの次女が「16年間生きてきた」わけですが、本当に色んなことがありました。

最初に次女の「病気」を意識したのが生後半年でした。明らかに呼吸が停止している状態に時々なっていたのですが、それが「てんかん発作」だという事に確定したのはそれから2か月ほどだった記憶があります。

高知大学付属病院の小児科に母子で入院した期間が、確か2か月だったはずです。長女は入院生活(次女の付き添い)で家を空けていた母親の代わりに、私と暮らしていたのですが、それはつらい日々だったことだと思います。母親の代わりを、父親の私が満足にできるわけはなく、私自身もしんどい日々でした。当時流行していたプリキュアのレアカードをヤフオクで落として、長女に献上することぐらいしかできませんでした。

その後、次女は帰ってきたのですが、たまに発作が起こったり、障害があるがゆえの「難しい特性(性格)」に家族が振り回されていた時、長女は中学生から高校生になり、だんだんと次女と距離を置くようになりました。物理的に学校のクラブ活動が忙しかったことも理由の一つかもしれませんが、彼女なりに「自分を守っていた」のだと思います。現に、次女が癇癪を起したときに、冷たく次女を突き放した言葉を言ったこともありました。

その当時の私は、54歳で精神保健福祉士の資格取得のために専門学校生となり、少しづつ「障害者とその家族」について学びを深めていたのですが、「障害のある子とそのきょうだい」の関係性の複雑さ(困難さ)は理解していましたので、長女の厳しい言葉を聞いて泣きじゃくる次女だけでなく、そんな言葉を「選択した」長女の気持ちも推し量ると、なんとも言えない気持ちになっていました。

そして、長女は地元の国立大に進学して、次女は地元の特別支援学校高等部に進学して、今日を迎えることができました。

そんな昨日、次女が苦手な掛け算の宿題ができずに癇癪を起しそうになっていた時に、長女が母親に代わり、次女に掛け算を教えているではありませんか?

そう言えば、長女は学童保育のアルバイトを一年ほど前からしているのですが、障害グレーの子どもへの「自分なりの対応法」を母親に報告していたのを思いだしました。きっとその経験は、長女にとっては次女への対応のヒントになっているのかもしれません。

普通に次女に掛け算を教えている姿は、母親の愛情を受けられずにモヤモヤしていたあの子どものころとは見違えるほどでした。そして、次女も素直に長女に「ありがとう」と言えるようになっている事も見違えます。

今後も、色んなことがあるかもしれませんが、とにかく、何となく、今日は嬉しい気分です。こんな日々が今後もたくさんやってくれば良いな、と思っています。

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