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多重構造の差別の痛みを知れ

ブックレット「同性愛と同性婚の真相を知る」(弘前学院大学・楊尚眞(ヤン サンジン)教授)より。 「今日の講演の目的は(中略)性的少数者を卑下したり、軽んじることではありません。性的少数者の人格、尊厳は尊重しなければなりません」と書かれている。この言葉が「本物」かどうかは氏の発言による。

一般社団法人fairの代表理事・松岡宗嗣氏の記事で指摘されている楊尚眞氏の発言(記事)だけ読み直そう。 「同性愛は心の中の問題であり、先天的なものではなく後天的な精神の障害、または依存症です」 1990年5月17日、世界保健機関(WHO)が同性愛を「病気」のリストから外すと宣言した。

同性愛研究は同性愛とは「人格障害」の一病相であると仮定し「ホモセクシュアル」と名付けられた。ヘテロセクシュアルという名称は「ホモセクシュアル」に対立する「健全」な対義語として後から発案されたものだ。同性愛研究は抑圧からの救済のための研究ではなかった。

【歴史】1969年6月28日、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン」への警察の踏み込み捜査に対し、LGBTQピープル(主にトランス女性とレズビアン女性)による初の警官への抵抗と抗議が暴動となった。これに端に「権力によるLGBTQピープルへの迫害に立ち向かう抵抗運動」へと発展していった。

【歴史】1978年ハーヴィー・ミルクがアメリカ発のオープンリーゲイとしてサンフランシスコ市会議員に当選。11ヶ月後の1978年11月27日、同僚のダン・ホワイトにジョージ・マスコーニ市長とともに射殺される。ホワイトへの7年の禁固刑判決この判決はホモフォビアに基づくものであるとして非難された。

「ICD10 国際疾病分類」では1948年から80年代まで、同性愛(ホモセクシュアリティ)は医学上「精神障害」に分類されていたが、上述の通り、疾病の分類名として 同性愛の項目を廃止した。日本の厚生省は、1994 年に ICD-10 を採用している。したがって現在の日本では「同性愛」はコード化されていない。すなわち「同性愛」は病気ではない。

LGBTQピープルの差別との戦い、市民としての権利と保障の平等化への働きかけ、抑圧と差別を怖れるLGBTQピープルへのエンパワーメントの歴史と、同性愛の非病理化への歴史は時を同じくしているところに着目したい。偏見と断罪がスティグマ化を起こし、脱差別の地平では過ちに気づくのである。

「同性愛は心の中の問題であり、先天的なものではなく後天的な精神の障害、または依存症です」という という非科学的で社会学的にも問題のある発言は一体どこから来たのか?特定の宗教支持者や宗教価値観そのまま国の権威となっているパラダイム内での主張だ。今回はキリスト教原理主義の主張だ。ちなみにキリスト教原理主義者は病気や障がいは罪に対する神の罰や怒りと理解する。なので同性愛者の原因を「精神病」や「依存症」を引き合いに出して語ることに、精神の病や障がいを得ている方々を引き合いに出し合理化することに何の問題意識も省みもないことを指摘しておきたい。

宗教的パラダイム内では根拠となり得る世界観や信条を聞くこと自体が目的のケーススタディーならわからなくもない。票田を耕にきた議員相手だからこそ科学的根拠のあるこれからの社会形成のためのヒントとなる学説を提供し語るべきではないかと僕は思う。

【とんだ欺瞞】「(同性愛などは)回復治療や宗教的信仰によって変化する」「世界には同性愛や性同一性障害から脱した多くの元LGBTの人たちがいる」 逐語霊感説という立場をとるアメリカの教派を横断した「福音派的プロテスタント教会」が提唱し実践してきた、医学的に全く根拠のない偽セラピーだ。

「同性愛は罪であり地獄行き」という暴力は、それらの教会内では「神の声」に変わる。神を持ち出され家庭地域ぐるみの絶対的で合理化された暴力を伴う原理主義キリスト教教育環境という構造的な抑圧下で育った同性愛者のなかには、かつて「自我異和的同性愛者」と呼ばれていた問題を抱える。

「自我異和的」は、他者から負わされた理想我と本来の自分、自分らしい自分とは違っていることにより自己が他者となっている状態のことだ。それに悩み苦しんできた自我異和的同性愛者のキリスト教徒は本来の自分でありたい願いと、周りから背負わされる自分でありたい板挟みの状態となる。

それを変えたいという持続的願望を持つ同性愛キリスト教徒に、根拠のない、非常に抑圧的で、自己洗脳的な閉鎖環境での集団セラピーを上述の教会は行ってきた。教会側は議員や財界人との繋がりの太い原理主義キリスト教団体に取り込まれスポークパーソンとなり献金利権を享受し政治利用されている。

一方、コンバージョンセラピーのコンバージョンという言葉は「転向」を意味するものの、非常に侮蔑的な意味のある言葉である。「非人間である同性愛の化け物から真人間の異性愛に変えていただける」くらいの意味だろうか。

セラピーを受けた人で「異性愛者になった」と主張する人は多い。異性と結婚し、子どもを授かり、家庭を作り、教会でも一目置かれる「奇跡の人」。実際のところは自分は本当に異性愛者であると言い聞かせ、異性愛者のように振る舞い、自分を受け容れずに葛藤し続ける「同性愛者」へと洗脳されてしまう。

本来の自分を誰にも祝福されず、生涯にわたり異性愛者として振る舞うことは思い抑圧であり無理な話である。「本来の自分を受け入れるくらいなら死んだ方がまし」という思いは「転向」後の自分への疑問や抑圧・抑鬱へと認識が変わっていく。

現在、世界に15か国がコンバージョンセラピーを禁止している。ノンフィクションフィルムや、アメリカのLGBTQカトリック支援組織などから、セクシュアリティの押し付け/非受容の過程において、また、コンバージョンセラピー経験者の自死が非常に多いと報告がある。

「LGBTの自殺率が高いのは、社会の差別が原因ではなく、LGBTの人自身の悩みが自殺につながる」とはどういう見識だろうか。人間は社会的な生き物である。だからこそ埋没もカミングアウトもするし、アウティングは犯罪とされる。社会的問題が個人的な悩みになるとは相当の痛みではないか?

【何も見えていない】「性的少数者のライフスタイルが正当化されるべきでないのは、家庭と社会を崩壊させる社会問題だから」つい30年ほど前は日本でも社会的圧力や価値観の強制で本人の意に関わらず結婚しなければならない社会だったことを覚えている。それにセクシュアリティは関係ないのだ。

具体的に何が社会問題なのか?先述の話ではないが、異性と結婚する生き方しか選択肢のない同性愛者は異性と結婚し、家庭を作り、秘密で同性と関係を持つ人が世界中にどれだけいるのか数えてみたらいいと思う。それは彼・彼女らの倫理感や責任や誠実さの問題だろうか?僕はそうは思わない。人間そんなに強くないし、何かを麻痺させなければダブルスタンダードを生きることに押し潰されてしまう。

神道政治連盟の担当者は「一部の報道では、楊氏のことを差別的だといいます。ただ楊氏は講演に際して『私には差別の意図はございません』とハッキリおっしゃっています。講演録の方にも、そういう風にきちんと書いております」と言ってる。問題とされているのは楊氏の「差別の意図」ではない。結果だ。

差別問題の歴史は、暴力や搾取、不平等と人権侵害、自分以外の人間を自分の目的のための手段(道具)とすることをよしとするあり方の繰り返しだ。差別する者は自ら人格の尊厳を捨て、差別される者は自分にはもうこれしか残っていない自分の人格の尊厳を全否定され傷つけられ奪われしまう。

差別する者と差別される者の視座はそれほどに違う。また、差別の構造は二項対立に固定できるほど単純ではないし、ましてや差別される者にアイデンティファイしたい人などいないだろう。差別する意図はなくとも対話に開かれていなら、その人は二重に差別を繰り返したことになる。そのことを学ぶべきだ。

差別問題は気づきと受容と共生なしに解決はない。「もう差別はやめてほしい」と訴える声に真摯に耳を傾け、何が差別なのかを省み、事実を受け入れ、謝罪し、共に生きることを願うなら、キング牧師がいうようにイーブンな立場で昨日までの差別者と被差別者が友情をもって共に座ることができるのだ。

補足)「自我異和的」同性愛者の生きづらさは本人の行動やメンタリティの問題ではない。1987年以降の DSM では「自我異和的同性愛者」という分類名=診断名は「障害」は廃止された。生きづらさを与える社会の構造、宗教的同調圧力的な社会問題の強制・社会病理にこそ原因があると判断されたからだ。


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