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人は「学んだように教える」

人は学んだように教える。
その教え方が良いか悪いかは別として、
「知っている教え方で教える」

最近、そう強く思ったのは、
ボランティアの日本語教室で、他の方の”日本語の教え方”を見学したときだ。

日本語を教えるボランティアは、ここでは50名くらいおり、
始める時は必ず研修を受けなければならない。
その研修の一つに「他の人の教えているところを見学する」というのがある。
同じ建物内のあちこちで、1〜3名くらい(たまに5、6名)の学習者に1名の日本語教育ボランティアさんがついて、日本語を教えている。

私はそれまで、某奨学制度団体が教える「コンテクスト(文脈)」を最重要視した直接法での日本語の教え方しか見たことがなかった。
ここは日本で、ボランティアさんも日本語教育を学んだ人ばかりではないし、
英語を含む外国語をあまり話せない人も多い。
それぞれができる範囲で自分ができるように教えれば良いことになっている。
それは知っていたから、「いろんな教え方があるだろうな〜。みんなどうしているのかなぁ。」
と、ゆっくりした気持ちで見学していた。

いろいろな教え方があった。
なるほどねー!と思うのや、
ボランティアでここまで頑張るのか・・・!
という方法もあった(ソフト開発しちゃってた)。
が、
あ!と思ったのが、全体を通して
「これは、日本の学校での英語の教え方だ!(少なくとも一昔前の)」
ということだ。

たとえば・・・
学習者はテキストをじっと見ている。
テキストを音読する。
テキストの練習問題を、テキストじっと見ながらこなし、
「わかりましたか?」と聞かれ「はい」と答える。
指されてわからない問題があれば、
横にいるよくできる学習者に答えを聞いて、
それを答え
「そうですね」と先生が言って先へ進む。
学習者の視線はテキストから動かない。

アジア出身の学習者が多いというのもあるかもしれない。
アジアの人は、学習の場で比較的受け身だ、というのを聞いたことがあるし。

あぁ、それにしても、そうか!
語学を教えるスタイルというのが、
自分が学校で英語を教わったスタイルになるんだな!
と、思ってしまった。

それでもいいのかもしれないなぁ。
一通りをなぞるだけでも、ここで終えることができるし、
学習者がそうしたいのかもしれないし。
テキスト使ってそれに沿ってやると、漏らしがないし。

でも、自分自身はそのやり方で、英語ができるようにはならなかったし、
なにより会話ができるようにはならなかった。

日本式の「英語の教え方」を、
「日本語を教える」場で見ることになり、
いいとか悪いとかは別として、
人は「教わったように」教えるんだな、と思った。
学校以外の場所で、
独自に語学を学ぶ機会があれば、
それも取り入れられるから、
「学んだように教える」ということか・・・。

自分は、なまじっか、
英語の学びをいろいろやり、
自分の学習塾で試行錯誤しながら、教え方の最適解を探し続け
日本語教育法もアメリカで学び、
教育心理学をかじったりした。
そんな中途半端な私が
週1回90分の日本語教室に何をどう盛り込むか、
毎度悩んでいるのも、
学んだように教えようとしているからなんだろうなぁ。

教え方の軋轢とか融合とか親和性とかが存在する。
そういうものも
よく考えれば、
インタラクショナルな異文化交流なのかもしれない!
異国間に限らず世代間も含めて。
などと思った出来事だった。


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