とりあえず書いてみる。

 NOTEに会員登録してから気が付けば3か月が経っていた。書くことは嫌いではない。むしろ、口下手な私にとっては「書く」ことは自分の思考や内面を表に出す貴重な活動だ。
 「書く」ことは誰かに読んでもらうための活動でもあるし、同時に自分を客観的に見るきっかけを作ってくれる活動でもある。どんなことに感動し、どんなことに怒り、どんなことに悲しみ、どんなことに癒され、どんなことに興奮し、どんなことに共感し、どんなことに心揺さぶられ、それらは自分をどんな方向に導いてくれるのか。
 私はその都度その都度、その瞬間に湧き上がる自分の感情をうまく言葉に言い表すことが苦手だ。20代の学生のころから、シンポジウムや公開学習会、パネルディスカッションなどに参加することは何度かあったが、頭の中がもやもやしたまま終わってしまって、後から「あ、私はこういうことにもやもやしていて、こういうことを話したかったんだ」と思ったり、心臓をバクバク言わせながら意見を述べたり質問をしても、頭の中で用意していたことの半分も言えなかったり、なんてことの連続だった。そこでそのまま通り過ぎてしまえば、その「もやもや」は「もやもや」のまま空中分解してしまうが、「書く」習慣をつけると「書く」ことでそれは目に見える自分の足跡になる。過去の自分と対峙したとき、こっぱずかしい思いをするかもしれないし、去年の私はこんなこと頑張ってたんだ、と逆に勇気をもらうこともあるかもしれない。
 高校の古文の授業で丸暗記させられた「徒然草」の冒頭は、「つれづれなるままに、日暮し、硯にむかひて、心にうつるよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」だが、40代中盤に差し掛かった今だからこそ、この「書く」という活動に情熱の一端を注ぎ込み、日常の喜怒哀楽や鬱々とした気持ちやアドレナリン大放出でやる気に満ち溢れているときの自分の状態や無気力で何も手につかないさまを包み隠さず徒然なるままに書き綴っていけば、それは自ずとこの先の道しるべとなり、自分が進むべき道が見えるようになり、後悔のない未来を作ってくれるんじゃないか、とも思えてきた。

 幸いにも、「書き仲間」とも呼べる仲間ができた。すでにライターの第一線でバリバリ書いていたり、ライターの仕事を始めた人だったり、社報や編集に携わっている人だったり、「書く」ことについてはみんな私よりも何百メートルや何キロも前を歩いている人たちばかりだが、だからこそこれから歩き始める私にとっては心強い仲間たちだ。書く人は、決して一人では歩かない。何メートル先にいても、何百メートル先にいても、何キロ先にいたとしても、ひとつの原稿を目の前にしたときにはみんな同じ場所で語り合える。置いてけぼっちになることはない。それが嬉しい。

 「ライターとは、翻訳者に似ている」という言葉を聞いた。私はまず、私の心の声に耳を傾けて、私の心の声を文字に翻訳してみるところからスタートしてみようと思う。自分の心の声を文字に起こすことすらできない状態で他の人の声を文字に起こすなんて畏れ多くてたまならい。心の声に素直になって、よく見せようとも思わず、悪く見せようとも思わず、「これが私の声」とさらっとお届けできるような場所にしていきたい。ここを。

私を「書く」世界に、この場所に導いてくれて、今この瞬間も背中を押してくれている仲間にもらった魔法の言葉とともに、今スタート。

「大丈夫。明日の私がなんとかしてくれる!」

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