見出し画像

将棋と数学の関係性

将棋と数学と私

私は数学で大学院まで出たが、将棋を趣味として持っている。意外とこういうケースは多いらしく、数学の実力と将棋の実力は正の相関があるのではないかと思える。
また、プロの将棋指しも含めて将棋と数学の関係性が議題に挙げられることが多い。明確な答えを聞いたことが無いが直感的に何かしらの関わりがあるのではないかと思う層が一定数いる。
かく言う私も大学2年生くらいの頃まで数学と将棋って似てるなあ、と思っていた事もあり、何がそういう思考足らしめてるのか記事を書きながら考察していきたい。(※この文字を打つ瞬間まで答えは出ていない)

将棋の種類

一般的に対人で戦う将棋を本将棋という。しかし、将棋は他にも種類がある。今回は将棋の勉強法にて種類分けをしてみたいと思う。(※棋譜並べは省略)
まず詰将棋というものがある。これは仮想の局面を作り、連続王手で相手の玉を詰ますというゲームである。
次に必死問題というものがある。必死とは詰将棋に似てるが「相手の玉を次に詰ますよ」という攻撃を仕掛け(※これを「詰めろをかける」と言う)、その次の詰み攻撃が分かっていても受けることが出来ないというものである。やはり仮想局面に対してその必死を考えるのが必死問題である。
最後に定跡というものがある。これは主に序盤から中盤の駒の動かし方の指針であり、その通りに指せばおおよそ局面が悪くはならないというものである。

これを星4つで数学との類似度を考えていきたい。

詰将棋(類似度☆☆)

これは数学と言うよりCPUをぶん回して全ての通りを考えるというものである。仮に数学で言うなら場合分けをしまくる数学のタイプである。
しかし、大局観の見出しでも触れるが、解いていると絶対に詰まないだろうと思える王手の仕方がある。これを一般的に「筋が悪い」と言う。詰将棋はトリッキーな筋の問題が多いが、一般的な実践で現れる詰みは筋を良くしないと詰まない。
なので詰将棋と言えど人間が取り組む場合は単純な全通り攻撃ではない。もっと言うと「筋の良い」順番に王手を考えていく。その「筋」は今の所定義不能の為、数学化されていないと言えるが、新たな数学を編み出す人間はまだ見ぬ定義に対して数理的な哲学をする為、仮に近いと言うならばこの部分であろう。

必死問題(類似度☆☆☆☆)

必死問題はかなり数学に近い。まず必死問題の基本的な解き方は、局面を有名な必死の形に持っていくと言うものである。
もし少し形が変わっても、次の詰みの逃れられなさを「有名な必死は受からない」と言う命題を真と仮定するならば、証明できる。
ここで攻撃に対して場合の数が多くなるならば、最終局面が「詰み」か「必死」かの違いだけしかないので類似度は詰将棋の星2つと建前上変わらなくなるが、実際的には必死問題では場合の数自体は詰将棋よりもかなり少ないケースが多い。故に、問題の本質は寧ろ、「受からないとされている形」という定理の運用問題でありこれはかなり数学に似ているのではないかと個人的には思う。

定跡(類似度☆☆☆)

これは研究数学に近い。そもそも将棋指しが定跡を考えることを一般的に研究と呼んでいる様からも学問的な近さをある種感じているのだと思う。
ただし、定跡研究とは「序盤手の広い局面でどう指せば味の良い局面に誘導できるか問題」であるが、数学との決定的な違いは積み上げた定跡理論を「正しい」と永遠に証明できない所にある。(※局面に対して部分的に完全解明されるまで不可能だと思うがどうか?)
一方数学の場合はひとつひとつの積み上げに対して部分であろうと証明は(ほぼ)絶対条件である。
将棋は、大局観を(感覚的)証明の拠り所にしていると言える。しかし、ある場面ではこの感覚は「絶対的に正しい」と思えるので、それを真と認めるとすると、近しいものはあるのかもしれない。(※しかし、これはAIの台頭により、昔の定跡に用いられていた感覚(大局観)は少なくない部分で否定されたという事実も忘れてはいけないです。)

本将棋(類似度☆)

以上の組み合わせが本将棋だとすると類似度はその加重平均になるかもしれないが、経験的に「経験」こそが本将棋の最も重要な部分だと個人としては思えるので類似度は仮に星1つとしておこう。

大局観とは

最後に何度かワードを出したが大局観と言うものについて述べておく。コンピュータと人間が将棋を見る上で決定的に違うのが大局観の存在である。つまり人間は盤面を何となく見れる能力を有している。
それはAIが1秒間に1億手も読むらしいが、人間は絶対に読めない事と、もう二度とAIには勝てないと思うが、それでも歴史的に見ればちょっと前までは勝てていたことが根拠として言える。
即ちは人間は「悪い筋」が何故か頭に思い浮かばないようになっており、全く手数を読んでいない割には正解の見逃しはかなり少ない。(※「相当数見逃している」と言う人もいるかもしれないが、明らかに読みの少なさと比例していない見逃し数である)
これは人間の脳の不思議であり、将棋に関わらず人間は大切な事を中心に注意し、考えれる能力を有している。
この能力は用語は変われど数学でも大いに使う能力である。

補足

あと数学との違いを挙げるとしたら、数学は自分との勝負、将棋は相手との勝負、という部分が決定的に違う。即ち将棋を孤独にしたものが数学だと言える。

まとめ

どうでしたか?この記事は冒頭で言った通り、書きながら考えていたが、ある程度分析できているのではないかと思います。
全体として意外と似てて、意外と似てないんだなあと感じます。
皆さんはどちらが好みですか?よければコメントで教えてください。

スキやシェア、フォローなんでも歓迎ですので下さい;;
またね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?