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どうかぼくの話を聞いてくださいって言うけど、君は人の話聞いたの? 『不可解なぼくのすべてを』批評

5月31日、マンガ『不可解なぼくのすべてを』シリーズが第5巻の発刊をもって完結した。第1巻からリアルタイムで追っていた身として、まずは完結おめでとうという気持ちと、終わってしまったことにちょっぴり寂しさも感じている。これがリアタイという動詞に紐付いた趣というものなのか。

シリーズ完結してから全体を改めて見通すと、『不可ぼく』というシリーズはもぐものための物語だった。3巻までは男の娘カフェの他のメンバーもある程度ストーリーに絡んできた印象があるが、もぐもの妹さくらの登場によって潮目の変化は決定的なものとなり、4巻からはもぐもとその家族の課題と向き合うストーリーとなった。個人的には、カフェのメンバーであるめいちゃんやてんちゃんについてもっと掘り下げて欲しかった感もあるが、伝えたいテーマを絞ってのことだろう。スピンオフに期待しよう。

さて、私は残念ながら、最終的に、もぐもというキャラクターを祝福することが出来なかった。それは、最終巻において提示されたもぐも家の家族会議の過程と結果によるものだ。これから述べる内容を簡潔に言い表すならば

「バカやろうもぐも! 父と向き合え!」

である。この記事では、最終巻の焦点となった、つまりこの物語で最も描きたかったテーマであるもぐもと父の対立とその論戦の過程について批判的に検討するものである。マンガ未読の人や、LGBT系の前提知識のない人にも楽しんでもらえるよう、丁寧な記述に努めた。

『不可ぼく』に対するファンレターも書こうと思えば書けるわけだが、今日は批判的な語り口になることをお許しいただきたい。

もぐもというキャラクターの争点:性自認

この物語の主人公もぐもは自身を「Xジェンダー」であると位置づけている。あまり聞き慣れない単語だが、Xジェンダーとは、男(M : Male)でも女(F : Female)でもない X という存在、どちらでもあるようなどちらでもないような曖昧な存在として自分の性を認識しているということだ。自分の性別をどのように認識するかというのが、いわゆる性自認の問題である。例えば、女の体で生まれたが心は男である(性同一性障害)といった場合がある。こういった自己認識として心と体の性が一致していない事態を説明するために生まれた概念だ。

この物語の主人公もぐもは長男として生を受けたが、小さい頃からかわいいものが好きで、いわゆる男らしさというものに馴染めなかった。そんなもぐもに対して父親は、一家の長男としての期待からもっと男らしくしろと厳しく接していた。しかし父の単身赴任の間に、中学に上がり性別違和に耐えられなくなったもぐもが荒れたことによりって家庭が壊れ、もぐもは親元を離れての一人暮らしで制服自由の高校に通うことになったのだった。そして今、自分を理解してくれる彼氏やカフェの仲間たちの支えを胸に、家に戻って父と話そうという筋書きである。

お粗末な家族会議の過程

この会議の最大の問題点は、もぐもと父のどちらも相手の論理を理解せずに終わってしまったことである。会議の参加者を挙げると、もぐも(龍之助)、妹(さくら)、母、父、そして後半から応援に駆けつけたもぐもの彼氏哲の5人だ。この5人の対立は、なんと 父 vs もぐも他3人 という 1 vs 4 の構図である。父視点でのなんという四面楚歌。これでは最初から勝負は決まっていたようなものだ。実際の経過を追ってみても、各陣営の大将のもぐもと父の意見対立がいつも通りに平行線のままヒートアップしたところに、哲や母の応援演説によって均衡していた形勢が崩れ、そのまま父が場の雰囲気に押し切られたという流れである。

もぐもは自分が今の自分のままXジェンダーとして生きることを父に認めてほしいだけだし、父は父で長男坊に幸せに生きる方法としての男らしさを選んでほしいだけ。しかしどちらも闇雲に自分の意見の正しさを主張して、喧嘩腰にわあわあ騒ぎ立てて、相手の意図を汲み取ろうとしなかった。

両者は相手の論理を理解しないままに、お互いの意見を変えることもなく、歩み寄ることもなく、人数の多い方が情に訴えかけることで決着をつけた

お互いに自分しか見えていない

今見たようにもぐも家の家族会議の質は悲惨なものであった。どうしてこのような内容になってしまったのか。

それは、もぐもも父も、自分を相手に認めさせることしか考えていないからである。自分の考えには全く間違いがなくて、正当なものであるから、相手が自分の正しさを分かってくれさえすれば、この深刻な家族問題は解決するし、全て上手くいくのに……。そう考えているからだ。なんという似た者親子。そんなところで似なくていい。

自分こそ正しいという、自己の無謬性を信じるがゆえに相手を一方的に決めつける態度は、特に父において顕著に描写されている。久しぶりに実家に帰ってきたもぐもに対して開口一番、「おかえり なんだその髪は」なんていう恐ろしいほど好戦的な挨拶だし、「その髪はやめなさい 母さん はさみあるか?」「何度も言わせるんじゃない 大人の言うことを聞きなさい」といった激しいリリックでは、ページを大きく使って強大な存在感を示すとともに、黒い背景ともぐもを見下ろす父を下から見上げる角度で映すことで、まるで悪役のような凄味のある演出がされている

確かにもぐも視点では、自分のあり方を認めようとしない父はまさにラスボスのように見えることだろう。

しかし、現実にはそんな分かりやすい悪役は存在しない。そいつさえ倒せば世界に平和が訪れるような、許されざる絶対悪のラスボスはいない。正義に楯突くいけすかない奴が携えているのは、劣った悪の論理ではなく、異なる視点から捉えられた別の正義の論理である。

もぐもの父がもぐもの中の正しさを見過ごしているのと同様に、もぐもの方も、父の論理の中にある違った物の見方やその理屈の価値を見落としている。もぐもの父がその目に自身の子どもを映していないのと同じく、もぐももまた父の姿を見ていないのだ。

これが端的に表れているのが、最終巻の帯にもなっているもぐもの言葉、「どうか笑わないで ぼくの話を聞いてください」である。これは家族会議におけるもぐもの開戦宣言だが、的外れもいいところである。なぜなら、もぐもの父はもぐもの主張について、一顧だにしないことはあっても、一笑に付したことなどないのだから。父はいつでも、父なりにもぐもに真剣に接していた。もぐもは一体、父の何を見ていたというのだろうか。

もぐもが父との論争において気付くべきだったのは、父の教育態度が決して自分を馬鹿にして貶めるためのものではないということ。そして、父だけでなくもぐも自身もまた、自分が正しいに違いないという確信に囚われているということである。もぐもに必要だったのは、相手の論理の背景に目を配ることだった

保守的な父の論理

もぐもの父の論理について詳しく見ていこう。もぐもの父は保守的な考え方の持ち主であり、本人の口を借りて端的に要約すれば「男は男らしく、女は女らしくしているのがいいんだ」という価値体系で生きてきた。彼はこの考えを強く信奉しており、それはもぐもの母にプロポーズする際の言葉遣いにもよく表れている。曰く、「真理さんを必ず幸せにします……僕と結婚してください!」だ。やりすぎなくらい実に典型的で男らしく、それによって幸せを掴んできたというバックボーンを持つのがもぐもの父なのだ。

近年では、このような性別役割分業の価値観は古くて間違ったものであると見なされがちで、その傾向は特に政治的正しさ(ポリコレ)の分野で顕著である。確かに、もぐもの父のような旧時代的なジェンダー価値観を表立って主張する人は減ったが、しかしそれと同時にこの論理の有効性が薄くなったわけではない。いやむしろ、誰も表では言わないが実際には理解しておくべき極めて重要な概念として機能している側面がある。

では、そのような「社会的には遅れた」考えであるところの男らしさを男の子がインプットすることで、どんなメリットがあるのだろうか。結論から言えば、男の子が大人の男性として自立し社会をサバイブするために極めて有効である。ごく一般の際立った取り柄もない普通の男性として、自分ひとりで生きていけるだけの金を稼ぐ。十分な稼得があることを土台にしてさらに、結婚して子どもを育てるという普通の幸せな人生を手に入れるための、極めてオーソドックスな方針なのだ。

特に、自分の力で金を稼ぐ能力は生きていくうえで最重要である。なぜなら、男性は他の誰にも収入を頼ることが出来ないからだ。男性が就職を回避することは困難である。自分が張り切って稼がなくていい方法といえば、親や配偶者への依存が考えられるが、親はいずれ先に旅立つし、専業主夫の少なさ、低年収と未婚率の強い関連性を見れば、配偶者に大黒柱になってもらうことも現実的な選択だとはとても言えない。どのみち働きに出なければならない。

だから一般に、男の身体で性を受けたものが、自分の人生を自分一人で引き受けねばならないことを肌身で本当に実感するのは、就職、つまり生きるための金を稼ぎに社会に出るタイミングである。就活では、どんな能力があってどれほど扱いやすくてどれだけ使える人間なのかをもって厳しく選別される。そこに、「私がありのままで」なんていう綺麗事は一切通用しない。普通の枠にはまらず扱いづらそうな人は、「申し訳ありませんがあなたの輝ける場所はこちらではございませんのでどうか他所へ行ってください」と丁重に祈られるのがオチである。普通でないパーソナリティであるにも関わらず会社に採用されることができるのは、能力その他のステータスが抜群に高い場合(例えば社会の上層の大手企業が職場の多様性!などと叫んでいるが、頭が良くて稼げることが前提である)、あるいは人員不足ゆえに多少変な人でもいてくれた方が嬉しい場合(得てして重労働低賃金なことが多い)だ。

つまり、どんな人生を生きるにせよ、社会の荒波に揉まれることは避けられない。普通の枠から外れた場所で生きるのは、並の人生より大変なことである。だから、社会をできるだけ楽にサバイブするために男という枠にはまっておきなさいともぐもの父は言うのだ

これが、「お前がいつまでもそんな格好じゃ社会で苦労すると言っているだけだ!!」というもぐもの父の発言の意図であり、まだ社会に出たことのない子どもとしてのもぐもに対して、父が大人として接する理由である。もぐもの父は、もぐもをとても大切に思っているこそ、社会に出ていける力を身に付けさせるために、乗り越えるべき壁役として厳しく接している。それはひとえに、もぐもに幸せになってもらいたいからである

社会、すなわち性他認

そう、もぐもが本当に戦わなければならないのは、父ではなく社会である。家族会議で周囲を味方につけて当事者トークとLGBT教本で父を倒しても、その先に待っているのは暖簾に腕押しのような掴みどころのない社会だ。

この場合、社会という言葉を適切に言い換えるならば、性自認ならぬ性他認である。もぐもは、Xジェンダーとして自分の性を認識している。自分の性への認識が、性自認という概念だった。それに対して性他認とは、社会がもぐもの性をどうとらえるかという問題である。結局のところ、社会の9割以上の人間たちは男か女に属している。彼らは人を男フォルダか女フォルダに分類して生活し、何ら支障を感じていない。もぐものことも、どちらかに振り分けて応対することだろう。

社会の9割以上の一般人たちが人を男女で振り分けて認識することをとめることはできない。それは個人個人の勝手だからだ。自分の身近な人になら逐一説明して理解してもらうこともできるだろう。しかし、社会に出て数多くの見ず知らずの他人と出会ったときに、そのたびに「私はXジェンダーでして~」と事細かに説明して分かってもらうつもりなのだろうか。相手に分かってもらおうと説明するのがこちらの都合なら、「よく分からん変な人だ」と判断するのも相手の都合である。変な人扱いでも接してくれるならまだいいが、避けられてしまうこともありうる。

どんな人でも生きやすい社会を! というお題目には誰もが賛成するだろう。しかし、では誰がその社会を作るのか。私たちは、社会を変えようと思った時に、ちっぽけな自分のあまりの無力さに向き合わずにいられない。社会はそんな簡単には変わらないことを痛感する。

枠にはまらない生き方は、正しさとは無関係に、間違いなく不利である。それくらい分かってる、ともぐもは言うかも知れない。実際、第1巻以前のもぐもは、制服自由の高校にあっても周囲を拒絶して孤立していた。自ら社会的に孤立しながら、理解者を希求していた。不利な生き方をしている自覚もあったろう。そこへ王子様のようにやってきた哲に手を引かれ、徐々に理解者を増やしていったのだった。そして今、社会と向き合うことなく再び目を背けて、今度は理解者たちの優しい世界に閉じこもろうというのか?

もぐもに必要なのは理解と覚悟

ここまで見てきたように、父が伝えたい論理というのは、自立して生きていくために知っておかなければならない社会の厳しさを背景にしていた。もぐもはこれを理解しているだろうか。私にはとてもそうは見えない。

確かに、もぐもの父にも責められる点はある。もぐもの父は明らかに、教育熱心が行き過ぎてやりすぎになっている。男でも髪の長い人は(例えばバンドマンとか)いるし、かわいいもの好きもコレクターなら全然いるだろう。女らしくするため、もぐもの妹にサッカー部をやめさせるのもおかしい。結局は程度の問題なので、人格のすべてをジェンダーの枠にはめようとしてしまったのはやはり瑕疵であろう。しかし、父の教育態度がやりすぎだからといって、その全てを薙ぎ払って捨ててしまうのもまたお粗末だ

世界には、絶対不変ですべての人にとって正しい真理などというものは存在しない。様々な観点から捉えられたそれぞれの真理の断片を見比べて、組み合わせて、自分にとっての真理を見つけて常に更新し続けていくという柔軟な姿勢が肝要である。

「我々の主張は道徳的に倫理的に正しい。ゆえに我々の正しい主張に君たちも従うべきだ」など公衆の面前で言って憚らない人々はまず疑うべきだ。道徳や倫理は場所や時代で簡単にひっくり返る。つい百年前の西洋社会は同性愛を病気とみなしていたことを鑑みれば、今当たり前のとある概念を百年後に主張して社会的に抹殺されないとも限らない。

改訂不要な絶対不変の正しさなど存在しない。だからこそ、もぐもはもぐもの中の正しさを点検し、対立する意見に含まれたロジックに耳を傾けねばならない。

そして、父の意見を理解したうえで、その上で父の考えには従わないと言うべきなのだ。「普通じゃない生き方がしんどいのは分かったけど、でもそれよりも、自分が自分らしく生きていけないことの方が僕はしんどいんだ。だから分かったうえでこの道を選ぶんだ」と覚悟を決めるべきだ。

その覚悟がないのに「ぼくは自分を変えずにぼくのままで生きていくんだ」なんて言ってみたところで、吹けば飛んでしまうような脆さである。中身が伴ってこそ言葉に価値が生まれるのだ。

思えば、『不可解なぼくのすべてを』は第1巻から社会=世間=性他認の問題と戦ってきた。Xジェンダーという性自認のもぐもが、周囲から「男の娘」というラベルを貼られたことに対して、「ぼくの性別を勝手に決めるな!!」と怒る一連のシーンである。この言葉は第1巻の帯のセリフにもなっており、物語の中で重要なセリフだ。

だからこそ、私はもぐもの成長に期待していた。「ぼくの性別を勝手に決めるな!!」から、「たとえ君たちがぼくの性別を勝手に決めてきても、関係ない。自分の人生を引き受けるのはこのぼくだ。だからぼくの性別はぼくのもんだ!!」と腹を決めて言ってくれる姿を。

結局その願いが叶うことはなかったが。

父性不在のグロテスクな結末

もぐもにとって、父はいずれ倒さなければならない存在だったことに間違いはない。もぐもの人生を生きるのはもぐもなのだから。父の圧力をはねのけて自分の足で自分の人生を切り開く時が来る。

しかし、倒すために選んだ方法についてはまずかったと言わざるを得ない。もぐもは父を倒すため、周囲を味方につけ、情に訴えるという方法をとった。そしてそれは成功した。父にも一欠片の正しさは含まれているということに気づかないままに、父を完膚なきまでに叩きのめした。

この家族会議の顛末からして、最終話にもぐもの父が一家を連れて、もぐもの働いている男の娘カフェに赴く描写は非常にグロテスクである。もぐも父の表情が、どこか生気の抜けたような感じに見えるのは気のせいなのだろうか。ちょっと気まずそうに照れたような顔をするのは、オムライスを前に「おいしくなぁれ」の魔法をするような初見にはやや気恥ずかしい趣のあるメイド文化のせいだけなのだろうか。

もぐもの父が男の娘カフェに出向き、男の娘カフェのしきたりにのっとって食事を取るシーンは、すなわちこういう意味に言い換えられる。父と子の舌戦において無条件降伏した父が、敵国の宮殿へ出向き、敵国の文化に合わせて降伏文書の調印をする図だ。父のこれまでの教育方針が一切間違っており、これからはもぐもを理解できるようにLGBTのお勉強をします……と。

私はこの結末に、父性の凋落ぶりを見てしまう。どんな子でも包み込んで愛してやるのが母性なら、厳しさをもって一人前に育ててやるのが父性であろう。このマンガの最後のセリフ「ぼくもわかんないから!」に集約されるように、もぐも自身でも分かっていない性自認をなんであれ受け入れてあげようというのは母性にほかならない。しかし、もはや父性はどこにも存在しない。これはどちらか一方に偏ってはいけない栄養素である。どちらも必要で、どちらも大切なものだ。

家族会議の過程において、「おまえは社会でやっていく力を持っているのか?」と問いかける主体を喪失してしまったもぐも。もぐもの問題は根本では解決しておらず、目先の敵を倒して束の間の平和を得たに過ぎない。高校を出たタイミングか、大学を出たタイミングは、いつかは分からないが、もぐもにはいずれ必ず自分の人生と向き合わねばならないときが来るだろう。せめてそのときに、もぐもの隣に彼氏の哲がいてくれることを願っている。

おわりに

『不可解なぼくのすべてを』最終巻を読んで、私は率直に残念だった。なぜなら、本編におけるもぐもと父の対立構造が、悪なる父と善なるもぐもという描き方に偏っているという印象を受けたからだ。全否定される絶対悪として描かれるもぐもの父の姿が、あまりにも報われなくてかわいそうに思えてしまった。だから、彼の思いを掬い上げて供養してあげたくなり、筆を執ることにした。

ここまで書いてきた内容もまた、時代遅れの考え方なのかもしれない。LGBTは社会の被害者であり、彼らの声をこそ傾聴するべきであり、LGBT当事者相手に何かを言う奴なんてレインボーフラッグのもとにひれ伏させるべきなのかもしれない。

しかし、自分の正しさを絶対的に信じている人にこそ一度立ち止まって欲しいと思った。どんなにその主張が正しそうでも、他の意見を寄せ付けないほど強い確信は必ずあなたの目を曇らせる。自分の意見を通すことに傾倒して、相手の話に耳を傾ける謙虚さを忘れてしまってはいないか。

最後に、私の印象として、この『不可ぼく』シリーズは1~3巻と4~5巻でかなりテイストの異なる作品であるということを再度指摘しておこう。3巻までの内容ならめっちゃファンレターが書ける。そのノリで8巻くらい続いてくれたらな、なんて余計なことを思ったりもしている。心中は複雑なまま未整理だが、それでもこの記事の終わりの言葉は始めから決まっている。

完結おめでとうございました。



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