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走り続けて何も残らなかった心の夜明け 彗星のパラソル / Endorfin.

Youtubeを徘徊していたら、久しぶりに脳髄からぶっ刺さる曲に出会えた。陽がのぼるすぐ前の窓際のベッドで目を覚まし、外の青白い空を独り見やるような情景が浮かび上がってくる。そんな曲だ。

この曲、Endorfin.の「彗星のパラソル」はぽつりと呟くような囁き声から始まるのだけど、掴みからキレッキレだ。

目覚めたら今日もまたいつもどおりの天井

この歌い出しはすごい。大好き。ただの事実確認に過ぎないのに、語り手がどんな心境なのかが鮮やかに描き出されている。

あてどなく旅する流浪人でもない限り、私たちが寝起きする場所は基本的に一定である。だから、目覚めた天井がいつも通りなのは当たり前だ。これは、起きていつも通りの洗面台で顔を洗っていつも通りの台所で朝ごはんを用意することと同じくらい普通で、特に意識することのない事実である。

それなのに、いつも通りの天井が敢えて意識される。ここに味わいがある。すなわち、代わり映えのしない現在が今日もまた繰り返されるということに納得していないことが示唆されているのだ。

心失くそうとしても拭えない感情

自分の心を殺して成り立っている変化のない生活は、語り手が望んでいたものではない。

暗い部屋からのぞく白い窓に
映る空想だけが輝いていた

だから鬱屈を抱え込んで、窓から夜明け前の薄明かりの空を眺めて、そこになりたかったあるべき生活の姿を夢想する。

このまま何にもなれないままで
消えてしまうのがただ怖くて
また息をした

自分が何者にもなれないことへの恐怖。それは何の夢も希望もなく年を取ってしまったせいかもしれないし、夢を道半ばで諦めてしまったせいかもしれない。語り手の心中には、何らかのあるべき理想の姿と現実の姿にすさまじいギャップがある。

「また息をした」のフレーズがまた秀逸だ。生きている限り呼吸は続き、そのたびに時間は進み続け死は近づいてくる。自分の生きている意味を見いだせないまま、ただ年月だけを重ねて死んでしまうことへの恐怖がある。

僕の頭上切り裂いた彗星
君もそうなの?

そして、タイトルに冠された彗星というモチーフの登場。

彗星は、空に尾を引いて輝く天体のひとつである。太陽系の外など遠い遠いところからやってきて、太陽に近づくと本体の成分が蒸発して光を放つ。その軌道ゆえに一度光りに来たのち二度と姿を見せないものもあれば、成分が枯渇してもう光らなくなるものもあるという。彼ら彗星は、その命を一瞬だけ輝かせるために太陽へ接近する。

彗星にしろ「僕」にしろ、やがて寿命が来て消えてしまうのは同じである。しかし、命を燃やして光る彗星と、有限の命を燃やしながら何もない「僕」とは対照的だ。

「君もそうなの?」まででじっくりと高められた熱が、続くフレーズで解き放たれていく。

どうして届かないものほど
涙が出るほど愛しい
幾千もの夜を越えて辿り着いた
ここには何も無いの わかってたけど

おそらく語り手はこの地点に辿り着くまで相当に不安定な心持ちだったのだろう。だから、ひとまず生活を落ち着けるために心を失くそうと努めて、自分を現実に適応させてきた。しかし、自分を曲げて辿り着いたこの場所には、薄々分かっていたことだけれど、自分の望むものは何も無いのだ。

自分の望むようには生きていけなかったから己を殺してただ生きることに努めたけど、それゆえに自分の望むものは何も手に入らなかった。分かっていたことでも、それは悲しいし、寂しいことだ。

何度も同じ夢を見るんだ 幼い日の
欲しいのものって 好きなものってなんだっけ
いつしか水をあげなきゃ枯れてしまうなんて
単純なことさえ忘れてしまっていた

幼い日の夢といえば、私は掲示板文化のこのアスキーアートを思い出す。

「そうだこれは夢なんだ」

どうにか現実に食らいついていくために、己を殺してきた。それに精一杯になっていて、気が付いたら何もなかった。それに、年も取りすぎてしまったような気がする。

まだ消えない臆病さが
この身を焼き尽くしてゆく
幾千もの夜を越えて辿り着いた
ここには何も無いの?

このまま何にもなれないままで
消えてしまうのがただ怖くて
また息をした
僕の頭上を切り裂いた彗星
君もそうなの?

歪な一瞬の光を いつか放てるように

しかし、これからの自分の人生の中で最も若いのは常に今この瞬間である。いま何も無いと思うのであれば、いま動き出すのが最も近道だ。焦らず、ゆっくりと。かくして、「僕」は自分の望むものを手に入れるために歩み始めることにしたのだった。

タイトルのもうひとつの要素「パラソル」は、歌詞の中に直接的に登場しない。けれど、これは間接的に示されているように思う。自分が放とうとしている光を「歪な」と形容していることがそれだ。

「パラソル」は、もとはラテン語由来のパラ(反、防御)とソル(太陽)が合わさってできた単語らしい。確かに、日差しを防ぐものがパラソルである。

ここでは太陽と、反太陽つまり彗星が対比されている。太陽は、多くの惑星を従えて、その系の中心で輝き続ける存在である。太陽自身にも寿命があるし、太陽と同格の恒星も銀河系全体に無数にあるとはいえ、やはり太陽は何らかの中心であり、まっすぐな存在だ。それに対して彗星はどうか。太陽に比べればサイズも小さく、安住の地もなく、その輝きは一瞬だ。彗星からしてみれば、惑星たちの真ん中で光り続けている太陽への羨望があるのではないか。

私は、太陽のようにまっすぐに光ることはできない。けれど、歪でも一瞬でもいいから、私だって光りたい。それが、彗星の反太陽(パラソル)ということではないだろうか。

社会のメインストリームでキラキラとした人生を歩んでいる人たち、彼らが太陽だ。陽キャの陽は太陽の陽。私はあんなふうに、正しくまっすぐ生きることはできなかった。だけれども、歪でも一瞬でも、今からだって光ろうとしてみていいのではないか。そんな風に自分を赦す行程が、この曲には描かれている。

「彗星のパラソル」のテーマは自意識だ。社会に適応して生き延びるために切り捨ててきた己の裏側を、もう一度掬い上げようとする物語である。欲しいものや好きなものが何か分からなくなるほどの虚無を過ごしてきたが、その生活には彩りがない。けれど、「心失くそうとしても拭えない感情」からいよいよ目を逸らせなくなった。このまま時間だけが過ぎ消えていくことを感情が否定するから、前に踏み出すしかないのだ。しかし逆に言えば、無彩色な日々に気付けたのは生活が落ち着いてきたからでもある。そういうある種の余裕のようなものができてきたからこそ、水底に眠らせていた心を呼び起こすことができるようになったのだ。



本曲「彗星のパラソル」はEndorfin.のアルバム「Horizon Claire」に収録されている。アルバム全体のストーリーにおけるこの曲の役割としては、次曲の表題曲かつアルバム最終曲である「Horizon Claire」での飛翔のための前準備、ということになるだろう。

そして、アルバム「Horizon Claire」は、アルバム「Horizon Note」のアンサーアルバムでもある。つまり、2つのアルバムで紡がれてきた大きな流れのなかの、最終章の前章を担っている。これについてはまた今度取り扱いたい。

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