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同級生

 「ユウはさぁ、都合のいい女で遊ばれてるだけじゃないか!おまえが男だったら、往復ビンタだぞ!」
 亨は、優子の顔をにらみつけて言った。さっきまですいていたビアホールは、真夏の暑さをしばし忘れようと立ち寄った、会社帰りのOLやサラリーマンで急に混み合い、話し声や開放的な笑い声で、顔を近付けないと会話が聞き取れないほどだった。

 木村亨と佐々木優子は高校時代の同級生。といっても、当時、優子は亨の存在すら知らなかった。一方の亨は気がついてはいたらしい。優子はガリ勉で成績優秀だったから、はりだされた順位表の名前を見た程度だが。二人が親しくなったのは、久しぶりに出席したクラス会でのことだった。卒業してから、20年もたっていたから、ほとんどの男性は、どこかくたびれた中年になり、女性は主婦らしく落ち着いてしまっていた。そのなかで、フリーのカメラマンをしているという亨は、うすいサングラスに、髭をはやし、他のクラスメートとは、なにか違う雰囲気をかもしだしていた。

 「木村君って、カメラマンなの?そういう仕事している人、同級生にいるなんて知らなかったなぁ」 
 「まあね、こういうことになっちゃってさ……。それにしても、佐々木さん、高校の時、ひでえブスだったなぁ。ほら、この写真、見てみろよ!」  
 亨は高校の卒業アルバムを開くと、まわりの同級生達に見せながら笑った。
 「はは、今の方がずっといいね、子どもいないからかなぁ。若いし」
 「最初見たとき、こんなきれいな人、同級生にいたかな、と思ったよ」
 かつての同級生たちは、アルバムを覗き込みながら言った。どこまで本気かわからないが、そういわれて悪い気はしない。
 「俺はさ、いい女見ると写真とりたくなるんだよな」
 「じゃあ、わたしは、どう?」 
 優子の問いに、亨は薄く笑っただけだったが、別れ際に名刺を渡し、
 「恵比寿にスタジオ借りてるから、近くに来たらよってよ」
 とタバコくさい息をはいて言った。

 会社の帰りに、ふとそのときの言葉を思いだしたのは、それから三ヶ月後の暑い盛りだった。仕事人間の夫とはずっと会話がなく、その日も帰りが遅くなるとだけ連絡があった。久しぶりに恵比寿にでも寄ってみようか、優子はスマホに登録しておいた亨のスタジオの番号をおした。
 「おう!なんだ、ユウか。じゃあ、エビガデまでおいでよ、あの、花男のモニュメントのとこ、知ってるだろ?」
 亨は同級生を意識しているようなきさくな調子で言った。優子が、木村君、と呼んでいるのに、いきなりユウだ。でも、こういう呼ばれ方はきらいじゃない。

 エビガデ、つまり、恵比須ガーデンプレースのビアホールは、レンガ造りの建物の地下にあった。広いスペースの一角でドイツ民謡のような賑やかな音楽が演奏されている。 
 「ここのビール、うまいんだよな、泡のきめがこまかくてさ」
 亨は、ジョッキの4分の1ほど一気に飲むと、「イー」という形にした唇から、「ふぃー」っと息をふきだして言った。その生ビールを2杯飲み干した頃、ボーイフレンドのことがふと優子の口をついて出た。秘密にしてきたのだが、誰かに話したかった「彼」のことが。

 「彼、会社の研究室のひとでね。セラミックの研究してる。ある会議で偶然会って、帰りがおんなじ方向だから、と送ってもらったことから親しくなって。3回くらい食事行ったかなぁ。この前、会社帰りに初めて家に寄ったの。彼、優子さんの手料理食べれるなんて、ってすごく感激してた。奥さんが小学校の先生してて忙しくてあんまり料理なんかしないんだって。」
 「へえ、手料理ねぇ。それだけじゃ、すまなかっただろ?」
 「そのあと?あの、まあ、・・・ね」
 「あのなぁ、俺、正直いうと、何回か浮気してきたけど、そんな相手の家にあがりこんだりしたことないぞ。浮気にはそれなりのルールってもんがある。ダンナが留守だからって誘ったユウもユウだけど、そう言われてのこのこ来るなんて、そいつ、どうかしてるよ!」
 そのあとのセリフが、「往復ビンタ」だった。なにもそこまで言わなくたって……。でも本気で怒っている亨が少しうれしかったり……。酔いも手伝って、優子の目に浮かんだ涙がこぼれそうになった。

 次の瞬間、顔をよせていた亨のくちびるが、優子のくちびるにふれた。かなりの早業だった。 
 「こんなとこで泣くか?話し相手ほしかったら、俺に連絡しろよ。俺だったら安心だろ?身元も割れてるしさ」

 4杯めのジョッキを飲み干した頃は、11時になっていた。さっきまで混んでいた広い店内は、人もまばらで、映画の終った館内のように静まっていた。亨は優子のショルダーバッグをひょいと肩にかけると、「駅まで送るよ」と歩き始めた。横断歩道を渡ると、もう恵比須駅だ。髭面で、黒のシャツに黒のパンツをきめた男が、ベージュの女物のバッグを肩から下げて動く歩道にのりこむ。優子はその後ろ姿を間近にながめながら、亨の言うとおりもう「彼」とは終わりにしよう、と決めた。

 次のクラス会に亨は来なかった。カメラマンは廃業し、スタジオも引き払ったとのこと。同級生との小さな秘密は、消えそうで消えない生ビールの泡のように優子の心に残った。

              おわり


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