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突っ走れ

 私と昌子と彼女の二人の子どもたちは、つい今しがた、やっとの思いでこのタクシーに乗り込んだところでした。京都から久しぶりに上京した昌子と待ち合わせした有楽町周辺は、月末のせいか、タクシーが見つからず、通りかかった一台は回送の札が出ていて駄目。しかし、そのタクシーがくるりとUターンして、突然回送の札を外し、運転手が私たちに手招きしました。私と昌子は荷物を引きずりながらそのタクシーに近づき、昌子と子供たちが後ろに、私は大きな旅行鞄を抱えて、前に乗り込みました。

 「いま食事をして、少し休もうかな~と思ったんだけど、美人だったからね」
 運転手は上機嫌にうきうきしているように見えました。
 「どうもすみません」
 「おかあさん、よかったね」
 私と昌子は口々にお礼を言い、昌子の上の女の子が嬉しそうに声を添えました。
 一つ目の信号に来たとき、運転手は画板の記録カードを取り上げ、「美人二人、子供二人ね」と言いながら鉛筆でなにか書き込んでいます。この記録カードは、ある地点を通過したことを書くはずなのに・・・と思ったのですが、詳しく尋ねると彼がどんどんしゃべり出しそうなので、黙っていました。せっかく乗せてもらいながら身勝手ですが、彼がうきうきしているのが少し堪に触ったのだと思います。久しぶりに出た東京で、もうだいぶ疲れていましたし、私の心の底にどこか他人の上機嫌に合わせられない、深い根が横たわっていました。
 昌子が後ろから、
 「今、道路、混んでいますか」と聞きました。運転手は我が意を得たりというように
 「混んでいますよ」
 私も素直に言葉が出て
 「そうですか。もっと先まで歩いてさがした方がいいかなと思ったんですけど」
 「いや、とんでもない。グランドパレスだったらこの道しかないですよ。ここまーすぐ行けばもうグランドパレスだから」
 「じゃよかった」
 道は割と空いているようでしたが、大きなトラックや配達のワゴン車がかなり走っていました。
 「今日は月末だし、金曜日だし道は混んでるでしょうね」私も少し口がゆるんできました。
 「そうなんだよね。俺なんかいつも、白山や、九段を回っているから、あんまりこっちは来ないの。ほらこっち来ると渋滞しているでしょう。白山あたりだと遠くのお客さんはいないけどね。お客さんはどっちから?」
 「私は横浜で、彼女は京都から」
 「横浜ねぇ見るからにそういう感じだよ。海の近くに住んでいるの?」
 「とんでもない。あそこは高くて、私なんかとても住めません。私はもっと山のほう」
 「横浜っていや、あのーベイブリッジ、気持ちがいいねぇ、渡ったかい?」
 「ええ、何回か。半分くらい、歩いて渡ったこともあります」
 「昔は社用族が銀座から何台か連ねて見に行った、という話も聞いたね」
 私は改めて、横にいる運転手さんの顔を眺めました。年のころは五十歳くらい、油気のない髪がふわふわ浮き上がり、おしゃれとは言えません。
 「あんた、隠し事できないでしょう。それで、なんでも人の言うことよくとっちゃう」
 突然矛先が私自身に向けられ、それも日ごろ周囲の人から言われていることなので、ドキリとしました。
 「どうしてわかる?」
 「そりゃわかるよ。顔に書いてあるもん。それであなたはすごく学があるね」
 後ろの席から、昌子が
 「そう、すごい秀才なのよ」と言いました。確かに学校の成績は良かったけれど、社員としては使い物にならなくてつい一か月前、十年間務めた会社を追われるように辞めたところでした。
 車はかなり大回りしているような感じです。
 「これまないた橋の方にでるんですか?」
 「そう、ずい分詳しいね」
 「前、神田に勤めてたから」
 「そうかい、でも、こういう人は会社を辞めるとき惜しまれただろうねぇ」
 「とんでもない。社長なんか嬉しそうだったもの」
 私は社長に「体調に自信がないので辞めさせていただきたいんですけど」
と言った日のことを思い出しました。 
 社長は、私の言葉を聞くと思わず正直な気持ちが出てしまったというような嬉しそうな表情をして
 「そうか、身体が悪いんじゃしょうがないな。それじゃいつにする?早い方がいいだろう」
 そして、あれよあれよという間に私の退社日が決められ、私は仕事という集団のゲーム、会社からはじき出されました。この十年間、一瞬一秒を仕事のために使ってきたのに、それが急に真っ白に分解して行きました。そして、退社した後、毎晩、会社の夢を見る日々が続いています。

 「でもさ、送別会くらいやってくれただろう?」運転手の声でわたしは我にかえりました。
 「まぁ、形だけはね」
 「そうかい」
車は高速道路の脇の道に入りました。
 「それでさ、あなたは一人が好きなのね。たまーに人と一緒にいるのは好きだけど」
 「ほんとにそう、どうしてそうよくわかるの?」
 「それに、すごくいいもの持っているけどね、損しているとこあるよ」
 「え?どんなところで損してるの?」
 「そりゃ言えないよ。何でも人に聞いちゃだめ。いつかまたこの広い東京のどこかで会ったら教えてあげるよ」
 車は、九段下を右折しました。私はバッグから財布を取り出しました。
 「京都からのお客さんも、いい旅ができるようにね」
 「そうなればいいと思うんですけど」
 「そりゃ大丈夫、この人と一緒だったら、いい旅になるって」
 私は、「損している」ということが気になってたまりません。そして、この運転手さんが救いの神のように思えて、つい
 「私、今、どん底なんだよね」と、漏らしました。急に運転手さんは、大声を張り上げました。
 「なに言ってるんだよ。このまま突っ走るんだよ。そうしなきゃだめだよ」
 車がホテルの車寄せに入ったので、私と昌子が自分が払うと押し問答している間も彼は
 「いいか。このまま突っ走るんだよ。このまま突っ走るんだ」と言い続けているのです。
 車が停車し、ドアがボーイの手で開けられ、私の膝の上の荷物がさっととられました。私はこのまま運転手さんと別れるのが寂しいように思えたのですが、照れくさい気持ちから、なるべく彼の方を見ないようにしていました。
 「おーい前ドアも閉めてってよ」
 「あ、すみません」しかし、ボーイがさっと閉めてくれました。
 ホテルの自動ドアを入る時、私と手をつないでいた昌子の上の女の子が、笹笛のような小さな声で
 「ねぇ、あのおじちゃんすごく励ましていたね」と言いました。私は
思わず彼女の顔を覗き込みました。
 「え、今の運転手さんのこと?」
 「そう、おばちゃんのこと、すごく励ましてたよ」

 その声が耳の中にこだまするのを聞きながら、私はホテルの明るいロビーに足を踏み入れました。

               
               おわり




 

 
 
 



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