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好きだった人

世界で一番好きだった人がいた。週に2回更新している日記にも幾度となく登場している「あの人」のことだ。だった、と書いているのは、恋慕が全く消滅したからではなくて、そう書かないと自分の中での彼との関係に区切りをつけられないことと、過去の告白を全て丁重に断られている手前、今後どれだけ彼のことを追いかけ回しても成就する見込みがないからだ。人よりそこそこ男性経験ないしは恋愛経験を積んできた自負があって、今も年下の恋人を持つ身が、後にも先にも彼ほど魅力的な、まるで澄んだ海みたいな雰囲気を纏った存在に惹かれ、大恋愛に陥ることはないと思う。

自分が21の頃に出会って、彼は4個上の25歳だった。専門学校を辞めてフリーターをしていた頃、吉祥寺の某バーで相席になったのをきっかけにコンタクトが始まり、翌日が毎年恒例の花見イベントというのもあって、じゃあまた明日会いましょうと帰り道にLINEを交換したのだ。そう、あの時は同時に会計をして一緒に駅へ向かったのだ。近い記憶はすぐ抜け落ちてしまうのに、あの人との記憶は何年経っても色褪せず、感覚としては昨日のままでいる。

翌日の花見ではスタートから1〜2時間遅れて参加していた(あの人は自分のペースで動く人間の代表格みたいな性格なのだ)が、昼から夜遅い時間までよく喋った。自分と違ってアルコールの耐性があまり強くないので、周りがウイスキーやテキーラショットなんかで騒ぐ中、変わらず凪みたいな雰囲気を醸しながら、やはり自分のペースでジントニックを啜っていた。当時は自分も紙タバコを吸っていて、確かキャスターか何かだったと思うが、あの人の吸っていたアークロイヤルを1、2本もらって、タバコ屋にしか打ってないんだよと教えてもらった翌日には黙ってタバコ屋に行き同じ銘柄のものを購入していた。魅力的なあの人と同じタバコを吸っていて、しかもそれが自分だけの秘密であるという既成事実にうっとりとした気持ちでいた。バイト終わりに最寄駅の喫煙所へ立ち寄り、エメラルドマウンテンと一緒に桜の木の下で一服してから家に帰るのが当時のルーティンだった。

出会って最初の年は、月に一度かふた月に一度の頻度で会う約束を立てた。内容は食事だけに留まらず、映画、水族館、遊園地と様々な場所を互いに提案しあった。彼はフリーターの自分と違って超大手企業に勤めており常時多忙な生活をしているので、こちらが誘うことがほとんどだったが嫌とは言わずにいつも予定を調整してくれていた。出会ったのが4月だったから、翌々月に自分は22歳の誕生日を迎えたのだけど、その月の終わりには神泉のビストロでお祝いをしてもらった。その日の帰りにもう告白してしまおうかと悩んだけれど、酒の力を借りた状態で言うのは純情な乙女心のプライドに反していると思い、結局伝えたのはそれから約半年後の秋になった。この時告白できていたら、彼もまだ自分を特別視してくれている中だったので、もしかしたら上手くいったかもしれない。

秋になると自分は実家を出て中野駅からほど近いシェアハウスに住んでいた。バイトは高校生の頃から続けている吉祥寺駅前のファミリーマートと、今はもうないが中野マルイの近くにあるレンガ坂のどんつきに存在していたカジュアルイタリアン。朝から夕方まで働き、夜から朝までまた働いた。苦ではなかったけれど、フリーターという肩書の手前で彼との明確な差分があり、きっと彼にとってもそのことは引っかかりとしてあって、女性として見る以前に親心が勝っていたと思う。直接伝えられず、解散してからLINEで○○さんのことがずっと好きで、と一言一句ベタな台詞を打ち込んで送信した。返事は、しばらくちゃんと考えたけど妹としてしか見られない、だった。その日はただ涙を零しながら夕飯の後だというのに盛大な過食をした。やけ食いだった。

彼はいつでもまたご飯には行こう、と言ってくれたが、当然なんとなく距離を置くようになって、以降はバーのイベント(屋形船やBBQやスタッフのバースデー)か年末のカウントダウンの際に顔を合わせる程度と、定期的に食事に行っていたのが嘘みたいに頻度が減った。加えて、そこで会っても会話らしい会話はなく、最近元気にしてるの、とかその程度だった。バーの常連の中でも朴訥で、かといって寡黙ではなくむしろ話し上手で、それなりの冗談を投げながらも周囲のノリとは一線引くような存在としての認知があった彼は、集団の中にいると様々な他の客に囲まれすぐに中心人物としてその場を回しており、その姿を遠目に見ていると悔しくて堪らなかった。自分の前ではそんな風に笑わなかった癖に、とか、一度でも自分のものになったことがないのに独占欲でおかしくなりそうだった。そういった雑念を振り払うために、彼がいる時は自分も極力他の客を交えて会話をを展開し、見せびらかすように楽しそうに振舞った。そんなことをしたところで恋愛の行方はどうにも転じないのに、そうすることでしか彼に対する恋心から騙し騙しでも気を逸らすことができなかった。そして、それは未だ呪いのように習慣として染みついており、インスタグラムのClose friendsに彼を追加しているのは、大体同じような理由が根底にあるからだ。

失恋を経験した自分は、まだ20代前半という若さも相俟ってもういっそのこと遊んでしまおうと尻軽女に転向していた。バーの他の常連に気に入られて何度もわざと終電を逃したり、吉祥寺のメンチカツさとうで働いていた同い年の男の子や横丁内で知り合った1つか2つ上の酒好きの子など、とにかくビジュアルが良くて酒が飲める相手を選定してはグルグルと回しながら遊び倒した。もう時効なので書くことにするが、当時勤めていた制作会社の上長とも不倫の形で関係を持っていた。シェアハウスを退去して、次にはもう念願の吉祥寺(といっても駅徒歩15分のボロアパートだ)に住居を移していたから、今から来てと言われたら行ったし、行った先で酔い潰れたら帰る場所が各方面に点在していた。今振り返っても、この頃は失恋に引っ張られすぎていて、身を削ぐような生活をしていたと思う。アプリを通して知り合った、志村坂上に住む男と一時期交際していたが、所詮アプリはアプリと関係に確信を持てなくて自らの意思で終わらせた。そっかあと返されたのでそのままブロックした。

2020年の2月頃に久々にサシで飲もうとなり(どうしてもまだ酒に酔うと連絡してしまう癖が抜けなかった)、彼の提案で中目黒のハイソな焼鳥屋に行った。その時はお互いに貸しあっていた本を返すというのが主たる目的で、自分は吉田篤弘の『おやすみ、東京』を彼に返却した。今これを書いていて偶然見つけたのだが、自分は当時の心境を以下のように綴っていた。本を返すという行為が関係に終止符を打たれるということになってしまうこと。その恐怖ゆえ、本来喜ぶべき久々の再会が哀しかったこと。そして今もまだ恋心は続いているということ。

世はコロナ禍に突入し、件のバーは緊急事態宣言を受けて半年弱シャッターが降りたままになった。自分は誕生日を前にして制作会社をZoom越しにクビになり、一時期は副業として続けていたキャバクラで食いつがなければいけない事態となった(運良く、今の会社の副代表がSNSで叫喚していた自分を見かねてスカウトしてくれたおかげで、ゼロからの転職活動をするまでには至らなかったが)。

5月に渋谷で一度密会をして、その時には惑星をコンセプトにした飴をもらった。確か、少し遅いホワイトデーか、少し早い誕生日プレゼントだったと思う。6月には彼を洗いざらい忘れられるぐらいの好きな人ができたが、それもあえなく振られてまた振り出しに戻ることになった。そうして緊急事態宣言が明けた秋口に、彼が当時住んでいた三軒茶屋で飲むことになった。開放的ながら喫煙可の人気店で、カウンターキッチンから出される料理に舌鼓を打ちながら、最近転職したんですとか、面白かった映画とか、近況報告を交えながらやはり取り留めのない会話をした。失恋して以降、明確に会話の質が落ちた自覚がある。すっかりこの人に見合うまでの自信というものがなくなってしまったからだと思う。会う度に自分が辛くなることはわかりきっていた。

その日もほどほどに飲んで解散の流れかと思いきや、うちで映画観ようと誘われ、家に行く流れになった。彼の名誉のために言うが、彼は自分と違って女を誑かしたりしないし、後にも先にも家を訪れたのはこの一回だけだ。酒の勢いで手を繋いだことはあっても、それ以上は何もしてこなかった。彼は、少なくとも自分の前では、そういう線引きがきちんとできる人なのだ。

本当はわかっていたが、せっかくの機会なら存分に享受しようと思い、時間を意識していないふりをして「終電は?」「あ、、ない」と言葉を交わした。彼がその気で誘ったのか、どうして急に家に招いたのか未だ定かでないが、ソファで寝るから部屋着だけ貸して、と言うと、しばらくの沈黙の後にとても優しい声色で「おいで」と言われて、彼の寝るベッドに潜り込んだ。自分のことが好きなわけではないのに、こんなに近くにいられてしまうことが甚だ疑問だったけれど、それが例え情けをかけただけであっても、彼の鼓動の音が聴こえていることが純粋に嬉しくて、その夜は自分より背が高く細身の彼の胸元にぴたりと額を当て、カーテンの隙間から射す月夜に照らされながら眠った。添い寝以上のことは起こらなかったけれど、自分にとってはどんなスキンシップを交わすよりも彼の隣で眠れることが夢のように心地好く、幸せな温度で満たされていた。長年の恋が実らなくても、今日の一晩を忘れないでいられるならそれで十分じゃないか、とさえ思っていた。

丸4年住んだ吉祥寺を離れ、本当は本業のみでクリアしたいところをダブルワークで20代の平均所得の倍額を稼ぎながら、今の家、都心部で飲食店のレベルが軒並み高い街に身を置いてもうすぐ3年目になる。出会った時の彼の年齢を超え、平日はほぼ趣味みたいな仕事をこなし、週末は単価の高いビールにありつく日々だ。年下の可愛い彼氏もいて、海外旅行も昨年達成できた。少なくとも出会った当時よりかは、彼に見合う人間性は培われているんじゃないだろうか。やり方は泥臭いし、遠回りばかりをしているが、その意味で言えば自分は自分に概ね合格をあげたいと思う。自分の今ある生活は、彼を追い越すために手に汗握って作り上げたもの、といって過言ではない。ダブルワークという手前、多少のストレスはかかるものの、何の不足もない日々の中で、自分はまだ彼への恋心を堰き止められずに抱き続けている。先日、バーの店長から5年越しに井の頭公園での花見イベントをやりますとLINEが飛んできて、すぐに行きますと伝えた。彼もきっと来るだろうし、少しばかりは話をするかもしれない。それでもこの恋愛に希望などはなく、彼は既に恋人がいるかもしれないし、もしパートナーがいたならば年齢的に結婚を考え出している時期だろう。そんな中で自分が彼に対してできることといえば、こっそりと長い間隠し持っている大恋愛の呪いの破片を、時々彼に対してちらつかせながら、彼がいつまでも自分の存在を忘れないように、「魅力的な女の子」として彼の記憶を塗り替えるべく日々の自分をブラッシュアップして、確実に彼の存在から距離をとる、本当に、ただそれだけなのだ。