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番外 G 「六平氏、自宅にて」

 光にはならなかった。願いは、届かなかった。

「どうして……ッ……!」

 握り締めた六平の拳は、ただ虚しく、宙を斬る。


 六平信は悲しい一人暮らしの中年刑事である。であるので、片付けも掃除も自力で行わなければならない。しかし悲しい一人暮らしの中年刑事であるので、自室に帰ってこれないことは度々あるし、そもそも面倒くさいので、まあその、正直言ってしまうと散らかっている。

 その日も、疲労困憊の体で自宅に辿り着き、コンビニの弁当を食べ、風呂になんとか入ってすぐさま布団に潜り込んだ。
 が、すぐに目が覚めた。
 気配だ。何者かが蠢いている、気配がする。
 職業柄、どうしても気配には敏感になる。しかも、その「蠢くもの」は彼の視界の近くにいた。視界のレベルが、横になることにより低くなっているのがその原因であった。

 暗闇の中に、居る。カーテンの隙間から溢れる街灯の光に、その黒さを煌めかせて、そいつは、居た。

 変な声が出そうになった。六平はそいつが苦手だ。大っ嫌いだ。そいつが好きだという人間は少ないだろう。クワガタとそんなに形は変わらないのに、どうして人はそいつに対して嫌悪感と恐怖感を抱くのだろうか。
 そう。Gだ。それは紛れもなく、Gだった。
 しかも近い。猛烈に近い。目の前。ホントにギャアアアとか悲鳴を上げそうになった。物凄い速さで布団からすっ飛び出した。海中で移動する時の海老くらいの速度だ。
 帰ってくる時、近隣で何か薬品っぽい煙っぽい臭いがしたことを思い出す。あれは害虫燻煙材の臭いだったのではなかろうか。燻されて出てきたGが、手近な住処を求めて近所に引っ越すのはよくあることだ。ああいつだったっけ、掃除しようと窓を開けて、すぐ隣のボロアパートの外壁をクソでかいGが這っている場面に出くわし……ってそんなのはどうでもいい。今は、この瞬間は、そっちは重要ではない。

 Gだ。デカい。じっとしている。六平は暗がりの中、必死になって殺虫剤を探した。視線はいまだ動かぬGに固定したまま。見逃す訳にはいかない。ここで見失ったら、もうどこに消えてしまうか分かったものではない。しかし凝視はしていたくない。どこだ、殺虫剤どこだ、前に買って置いてあったはず、どこだ……!
 闇を探る手が、円柱状のものに触れた。あった! 見つけた! さあこれを喰らえ……! と勇んでノズルをGに向け、トリガーを引いて……プッシュウウウウウウー……シュー……

「……これエアダスターーーーーー!!!!」

 Gを追い払っただけである。バカ! 信のバカァ! なんでエアダスターと殺虫剤間違える! このおバカ様!
 しかし、まだGは視界内に捉えていた。今度こそは間違えずに殺虫剤の缶を手に取り、そろりそろりと接近する。接近しすぎない程度に。

 六平がここまでGを苦手とする理由は、その過去にあった。幼い頃、夜中に目が覚め水が飲みたくて台所へ行き、そこで飛来するGと顔面から正面衝突。それ以来、苦手。大の苦手。無理。ホント無理。

 しかし、それだけに彼は知っていた。いや、調べた。
 Gは後退できない。故に、スプレー殺虫剤で狙うならばGの進行方向少し前方へと射出するべし。狙うは一点、粛清の時は既に訪れた! 喰らえ! 今度こそ喰らえ!!
 缶に記載されている必要十分以上の照射量を吹き付け、むせる程の薬剤をたっぷり食らわせて、ようやく六平は肩の力を抜いた。思い切り息を吸い込みたかったができなかった。そりゃそうだ、殺虫剤で部屋の中の空気はすごいことになっている。仕方なく背後に顔を向け息を吸い込んでから、改めて対峙することとした。
 一瞬、冷や汗をかく。いたはずの場所に姿がない。ぎょっとしたが、さほど離れてはいない所でモサモサと藻掻き苦しんでいた。しばらく息を詰めて見守っていたが、じきに、その動きは止まった。慌ててティッシュを何枚も箱から出し、何重にも重ねてGの上に被せ、わしゃわしゃっと包んでからコンビニの袋に突っ込んだ。今日買ってきた弁当のゴミが入っているやつだ。手近な袋がそれしかなかった。思い切りきつく縛り、それでも不安で部屋の片隅からスーパーの袋を発見すると更に被せてこれでもかときつくきつく縛った。

 終わった。孤独な戦いは終わりを告げた。
 だが、六平にはまだやらねばならぬことがあった。そう、彼の力を使う時が来たのだ。

 六平信の持つ異能。『弔い』という名の力。遺体であればどんなものでさえ光の粒子に変えてしまうという、戦闘には不向きな力だ。対象から約四十センチ程度の範囲内に手をかざし念ずることによって発動する。勿論、焼いた魚でもこれをやれば光になって消える。ゴハンのおかずがパァになる。切り身でも同じだ。ステーキ肉も然り。飲み会で腹一杯なのに無理矢理食わされそうになった時、そこそこ有効な能力である。ちなみに植物には通用しない。嫌いな野菜をどうこうするということは出来ないが、六平は食べ物の好き嫌いはないので安心だ。やったぜ。

 袋の上から手をかざし、集中する。天に昇れ。この世界での生を全うした躯よ、光に……
 光、に……

 ならない。入る感覚が、ない。少なからず「入る」「光になる」感覚というものがあるのだが、これが一切、ない。弔いによって光の粒子になると、ありとあらゆる物質を透過して空へと昇ってゆくのだが、これもまた、ない。

「……死んで……ない……!」

 それ以外の結論はない。六平の能力は発動も効能も絶対である。不発、などという現象は存在しない。死という現実があり、死体がそこにあるのなら、弔いから逃れることなどできない。ありえない。
 で、あるからして。「なんで」「どうして」などという回りくどい問いも、そこにはないのだ。結論は二つにひとつ。生か、死か。
 生きているのだ。まだ!

 袋の上から数回踏みつける。が、コンビニ弁当の容器のせいでいまいち潰れたかどうか分からない。それどころか微妙に角の部分が足の裏にゴリッと当たって痛かった。
 袋を開けて確認する? いや、これでまだピンピンしていて開けた瞬間に飛び出してきたりしたらどうすんだ。怖い。勘弁してくれ。
 いやいやいやいや待て、おい待て、この袋の隙間から出てくるってことはないのか。ほんの僅かな隙間さえあればGは出入りできる。いやいや、これだけしっかり結んでしまえば大丈夫だろう、隙間なんてない。ない。ほら、ない。全然解けない。

 もう一度、手をかざす。意識を集中する。さあ、消えろ、消えてなくなれ……!

「どうして……ッ……!」

 やはり入らない。入らない! 分かっているのに「どうして」と六平は問うた。いや、問いではない。それは慟哭であった。

 いっそ、今すぐにゴミ置き場に持っていってしまえば? いやダメだ、燃えるゴミの日は昨日だった。次のゴミの日は明後日。ここはおしゃれな高級マンションじゃないので、敷地内に専用のゴミ置き場とかそういうもんはない。地域の自治会が管理している普通のゴミ置き場に出さねばならず、指定日以外に出そうものなら手厳しいじいさまばあさまの指導が入ることだろう。一体どのタイミングで監視しているのやら。

「一緒に過ごせ、ってのか……」

 この夜を、そして明日を。いやまあ、明日も仕事だから日中はいないけど。怖い。こわいこわいこわい。やめて何それ嫌だ。
 袋の隙間に、殺虫剤のノズルを突っ込んでプシューしておいた方が良いのでは? Gが通れる隙間は約三ミリ、ノズルを突っ込むくらいなら問題ないのでは? 思い立ったら即実行、六平はすぐさま袋の結び目からロングノズルの先端を捩じ込み思う存分噴射した。祈りながら。ただひたすら、祈りながら。
 再び『弔い』を実行する気にはなれなかった。これでまだ入らないとなったらどうすれば良いのか分からないからだ。

 布団に潜り込み、頭まで被る。そして目を閉じた。もう六平に出来ることと言ったらこれしかない。もう、どうにもならない……。


 こうして、恐怖の一晩は明けた。Gが脱出した形跡は(多分)なく、六平は祈りながら、というか実際拝み倒しながら「頼むから出てくんなよ! っつうか死んでろよ!」と呟きながらゴミ袋を勤務先へ持ち込み、署のゴミ箱へ全力シューーーーーーッ! したのであった。
 とっぴんぱらりのぷぅ。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。