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『チェンソーマン』から学ぶ物語の作り方

この記事は『チェンソーマン』で使われている物語作成テクニックの解説です。
『チェンソーマン』を分析し、自分で小説やマンガを書く際に使えそうなテクニックを取り出しています。

冒頭の10ページほどの解説です。
ネタバレありです。



なぜあのシーンから始まるのか?


まず、なぜ、『チェンソーマン』第一巻の冒頭、第一ページは、あのようになっているのでしょうか?

以下に、藤本タツキ『チェンソーマン』第一巻の第一ページを引用します。

『チェンソーマン』第一巻より引用


なぜ、このシーンから始めたのでしょうか?
なぜ、他のシーンから始めなかったのでしょうか?

第一話を作る時点で作者がどこまでプロットを考えていたかは はっきりしませんが、たとえば、以下のような時系列順にイベントが発生すると考えていたとしましょう。

冒頭の1ページは、上図の赤枠で示した(12)と(13)の間のシーンです。
なぜ、このシーンを冒頭に持ってきたのでしょうか?

たとえば、(5)のチェンソーの悪魔が地獄にいるシーンから描き始めてはダメだったのでしょうか?

それがダメな理由としてすぐに思いつくのは、「この物語のメインの舞台は地獄ではないし、主人公はチェンソーの悪魔ではなく、デンジだから」というものでしょう。

しかし、たとえば『DEATH NOTE』は、「死神界にいた死神が人間界に落としたデスノートを夜神ライトという日本の少年が拾うことで、人間界でいろいろな事件が起きる物語」ですが、その冒頭は、死神界のシーンから始まります。
以下に冒頭2ページを引用します。

(『DEATH NOTE』第一巻より引用)


(『DEATH NOTE』第一巻より引用)


冒頭シーンは主に死神界の話です。人間界はチラ見せでしかなく、主人公の説明もほとんどありません。
 
 
また、『ジョジョの奇妙な冒険』の第一巻は、19世紀のイギリスを舞台とするジョナサン・ジョースターという少年が主人公の物語ですが、冒頭は、12~16世紀のメキシコ中央高原で、石仮面をかぶった男に女性が殺されるシーンで始まります。
以下に冒頭の1~2ページを引用します。

(『ジョジョの奇妙な冒険』第一巻より引用)


(『ジョジョの奇妙な冒険』第一巻より引用)


冒頭のシーンはイギリスが舞台ではないし、主人公も登場しません。
 
つまり、「物語のメインの舞台となる場所にいる主人公から話を始めなければならないから」というのは、理由として弱いのです。
 
 
 
あるいは、全ては(8)のデンジとポチタの出会いから始まったのだから、そこから物語を始めてはどうでしょうか?

あるいは、(1)母親の死や(2)父親の借金から始めた方が、デンジというキャラにリアリティと厚みを持たせられるのではないでしょうか?


たとえば、(5)のチェンソーの悪魔の凄まじい大暴れから物語を始めたとします。


しかしそれだと、大して面白くないです。
読者がまだチェンソーの悪魔に感情移入していないうちは、チェンソーの悪魔は読者にとって「知らん人」だからです。
「知らん人」が何をしようと、「知らん人」に何が起きようと、そんなものに興味はないのです。


あるいは、(8)のデンジとポチタの出会いから描いたとします。

しかし、その時点ではまだ、読者はデンジにもポチタにも感情移入していません。
「知らん少年」が「知らん悪魔」と出会っても、読者はそんなに面白いとは感じません

それ以外のシーンも、同じ原則が当てはまります。
読者が感情移入していないうちは、何を書いても、なかなか面白くならないのです。

このため、読者が感情移入しやすいシーンから始めるのが上策です。
だから(12)と(13)の間なのです。


なぜ、このシーンだと、読者が感情移入しやすいのでしょうか?

もう一度、冒頭の1ページ目をよく見てみましょう。

(『チェンソーマン』第一巻より引用)


読者の多くは、「悲惨な状態にいるキャラ」に感情移入しやすいからです。
貧乏だったり、飢えていたり、怪我をしていたり、無職だったり、劣等生だったり、不登校だったり、弱かったり、バカだったり、失敗ばかりしていたり、騙されていたり、搾取されていたり、差別されていたり、不器用だったり、人付き合いが下手だったり、いじめられていたり、孤独だったり、とにかく、悲惨な状態のキャラに、読者は感情移入しやすいです

冒頭またはその付近に、「主人公が悲惨な状態にあること」を描く物語がよくあるのは、このためです。

たとえば、『僕だけがいない街』は、主人公の持ち込みマンガが編集者にダメ出しされたシーンから始まります。
以下に冒頭から3ページ目を引用します。

(『僕だけがいない街』第一巻より引用)


「主人公が悲惨な状況にいること」を描いているのが分かります。
 
 
 
 
代紋take2』では、1ページ目からではありませんが、やはり冒頭のあたりで、うだつの上がらないヤクザの情けない状態の描写から始まります。

(『代紋take2』第一巻より引用)


(『代紋take2』第一巻より引用)


ただし、読者を感情移入させる方法はいくつもあり、「悲惨」は、その方法の一つにすぎません。
たとえば、『ジョジョの奇妙な冒険』、『DEATH NOTE』、『涼宮ハルヒの憂鬱』、舞城王太郎『土か煙か食い物』は、別に主人公が「悲惨な状態」にあるシーンから物語が語られ始めるわけではありません。
それらは別の方法で読者を物語に感情移入させにいってます。




もう一つの要因

「悲惨」というなら、(1)母親の死や(2)父親の借金のシーンだって「悲惨」ではないでしょうか?

なぜ、(1)や(2)ではなく、(12)と(13)の間なのでしょうか?
感情移入させるためには、「悲惨」だけでは不十分だからです。

では、「悲惨」以外に何が必要なのでしょうか?
その疑問に深入りする前に、なぜ「悲惨」として「借金」を選んだのかを整理しておきましょう。
「悲惨な状態」にする方法は、他にもたくさんあります。
なぜ、その中から借金を選ぶ必要があったのでしょうか?

主人公がデビルハンターをやる動機が必要だからです。
それは、第1ページに続くページから分かります。

それを確認するため、以下に、『チェンソーマン』の2ページ目(見開き)と3ページ目の1コマ目を引用します。

(『チェンソーマン』第一巻の2ページ目(見開き)を引用)


(『チェンソーマン』第一巻の3ページ目の1コマ目を引用)


つまり、1ページ目~3ページ目の1コマ目で、
「借金を抱えている → 金が必要 → だからデビルハンターをやっている」
ということが説明されているのです。

しかし、どうして、デビルハンターをやる「動機」が必要なのでしょうか?
単に「デビルハンターをやっている」という設定にすればいいだけではないでしょうか?
走れメロス』だって「メロスは、村の牧人である。」の一文で済ませています。そこでは、メロスが牧人をやっている動機が何なのかなんて、説明されてません。
この物語も、以下のように一コマで済ませてはダメなのでしょうか?

『走れメロス』では、「期限に間に合うように走る」という行動によって物語が駆動されます。
「牧人をやる」という行動で物語が駆動されているわけではありません。

これに対し、『チェンソーマン』の冒頭しばらくは、「借金を返すためにデビルハンターをやる」という行動によって物語が駆動されます。

つまり、「物語を駆動する行動」には「動機」が必要なのです。
『走れメロス』だって、「走る」という行動には、「友達の命がかかっているから」「約束を守らなければならないから」という動機が設定されています。

「物語を駆動する行動」に動機が設定されてないと、どうなるでしょうか?
読者は主人公の行動に感情移入できず、物語は退屈になります。

つまり、読者を感情移入させるためには、「悲惨」と「動機」の両方が必要なのです。



ただし、主人公の動機は、物語の最初から最後までずっと同じである必要はありません。
『「爆裂魔法の研究者になりたい」という動機で勉強していたけど、両親を殺されて、「両親の仇を討つ」という動機で行動し始める主人公』のように、主人公の動機が途中で変わる物語は多いです。

この物語でも主人公の動機は変わっていきます。




●「動機」の説明が1~2ページ目にあるのは何故でしょうか?
もっと後のページではダメなのでしょうか?

前述したように、読者が主人公に感情移入していないと、何を描いてもなかなか面白くなりません。
このため、できるかぎり早く感情移入させなければならないのです。



●「動機」を早く読者に説明する必要があるという点からすると、(10)から物語を始めても良かったのではないでしょうか?

しかし、(10)よりも(12)の後の方が、物語冒頭の悲惨度を大きくできます。


(12)と(13)の間の時点から物語を始めると、冒頭から「悲惨」度を高くできるし、「動機」を即座に読者に示すことができて、一石二鳥なのです。

 

 

なぜ兼ねる?

 
「借金を抱えていること」は、「悲惨な状態」と「デビルハンターをやる動機」を兼ねています。

 


なぜ、兼ねているのでしょうか?

兼ねないと、話が退屈になり、読者の離脱率が上がるからです。
たとえば、もし、借金ではなく、たとえば以下のように、別々の要因によって「悲惨」と「動機」が生じていたとします。

〔悲惨〕主人公は、酷いいじめを受けている。

〔動機〕妹を養うためにデビルハンターをやっている。


この場合、読者を感情移入させるために、これらを別々に説明しなければならなくなります。
そうすると、説明が長くなります。
説明が長くなると、読者は退屈して離脱してしまいます
だから、兼ねる必要があるのです。


敵の動機

そもそも、なぜ、「デンジがデビルハンターをやっている」という設定が必要なのでしょうか?

それは、敵の動機を作り出すためです。
動機が必要なのは、主人公だけではありません。
敵にも動機が必要なのです。
敵に動機がないと、敵の行動に感情が乗らないので、物語は面白くなりにくいです。

つまり、「物語を駆動する行動には動機が必要」というルールは、主人公の行動に限った話じゃないのです。
敵の行動であっても、それが物語を駆動する行動であれば、動機が必要なのです。

では、「デンジがデビルハンターをやっている」という設定は、具体的には、どの敵のどのような動機を作り出すのでしょうか?

この後登場するゾンビの悪魔は、「デビルハンターが自分たち悪魔を殺すから」という理由で、デビルハンターを殺したがります。
だからデンジを殺します。
これは説得力のある動機です。

イベントシーケンス図っぽく整理すると、以下のようになります。

(※ 正確には「ゾンビの悪魔」は「悪魔」に含まれるのですが、分かりやすくするために分けて描きました)


借金を返済するためにデンジはデビルハンターになる。
→ デンジはデビルハンターなので悪魔を殺す。
→ ゾンビの悪魔は、悪魔を殺すデビルハンターを殺したいので、デンジを殺す。

という因果関係です。



「デンジを殺す」イベントはなぜ必要か?

しかし、そもそも、なんのために「ゾンビの悪魔がデンジを殺す」というイベントが必要なのでしょうか?


デンジがチェンソーの悪魔の力を身に着けるためです。

見やすいように、「ゾンビの悪魔」と「デンジ」だけのイベントシーケンス図で整理します。

なぜ、「チェンソーの悪魔の力を身に着けたデンジ」が誕生したのかというと、デンジとポチタが切り殺されてバラバラにされて、ゴミ箱に捨てられたからです。
バラバラにされたデンジとポチタが合体して、「チェンソーの悪魔の力を身に着けたデンジ」が誕生したのです。

逆に言うと、そのために、デンジとポチタはゾンビの悪魔に殺されてバラバラにされなければならなかったのです。

必要性の連鎖を整理すると、以下のようになります。


しかし、そもそも、なぜ、デンジはチェンソーの悪魔の力を身に着ける必要があったのでしょうか?

それは、これが「チェンソーの悪魔の力を身に着けた少年の物語」だからです。

必要性の連鎖にこれを加えます:


つまり、デンジに「借金」があるのは、「悪魔の力をゲットするために必要だから」という理由もあるのです。

「借金」はこの3つの役割を兼ねているわけです。





期待

先程の図の中に、決定的に足りないパーツがあります。
「主人公の悲惨な状態」と「行動する動機」だけでは、読者の主人公への感情移入が、まだ不十分なのです。
その二つだけだと、読者は、最初は「キャラの悲惨な状態」に「同情」して感情移入しますが、だんだん憂鬱な気分になって、うんざりしてしまうのです。

その解決策が、先ほど引用した第一巻の2ページ目と3ページ目の一コマ目に描かれています。

もう一度以下に引用します。

(『チェンソーマン』第一巻の2ページ目(見開き)を引用)


(『チェンソーマン』第一巻の3ページ目の1コマ目を引用)


これらは、「デンジ&ポチタのコンビが悪魔を倒せること」を「説明」しています。
それが先程の図に足りないパーツです。
つまり、足りないパーツとは、「活躍するポテンシャル」です。
異世界転生ものだと何か特殊なスキル/魔法/アイテム/知識を持っていたり、歴史物だとすごい芸術/医術の才能を持っていたり、戦争物だと軍略/謀略/狙撃の天才だったり、時代劇だと剣の達人/優秀な岡っ引き/刀鍛冶だったり。
それらの才能/スキルの片鱗が垣間見えると、いかにも、その才能/スキルによって活躍しそうじゃないですか。
読者の多くは、主人公の活躍が見たいのです。今後活躍しそうな主人公に「期待」し、感情移入するのです。

先ほどの図にこれを組み入れて、より高解像度にすると、以下のようになります。


まず、借金があるので、「借金を返済する」という動機が生まれます。
その動機があるので、デビルハンターになります。
デビルハンターになったので、「悪魔を倒せる能力を使って活躍しそうだ」と読者に期待されます。
その期待によって、読者はデンジに感情移入します。

また、動機を持ってデビルハンターをやっていることによっても感情移入されます。

さらに、借金は悲惨なので、それによっても感情移入されます。

同時に、デビルハンターになることは、「悪魔の力ゲット」にも繋がります。



●こうして見ると、(12)と(13)の間の時点から物語を始めると、冒頭すぐに悲惨・動機・期待の三点セットが揃って、読者の感情移入が高くなることがわかります。


先程の「なぜ(1)や(2)のシーンから始まらないのか?」という疑問の答えが、これになります。




なぜあの強さなのか?


「期待」を作るために「悪魔を倒す能力がある」という設定が必要なのは分かりますが、トマトの悪魔を倒したシーンを見ても、悪魔を倒す能力がすごく高いようには見えず、あまり大きな期待は持てないのではないでしょうか?

意図的にそうしてあるのです。

理由は二つあります。

第一に、能力が高すぎると、主人公が窮地に陥っても、楽に窮地を脱出できることが予想できてしまうので、それは絶体絶命の窮地とは感じられず、はらはら、どきどき、手に汗握る展開にならなくなってしまうからです。
デンジが窮地に陥ると、読者にはデンジはそれほど強そうに見えないので、「やべえ。まずい。デンジ、やられる」「こんなん、どうやっても勝てないだろ。どうすんだこれ」と思って手に汗を握ります。
しかし、もしデンジが、最初から超絶強いように見えたら、悪魔に襲われても、「どうせデンジが勝つに決まってる」と読者は思うので、あまり面白くなくなってしまうのです。

つまり、弱すぎると、活躍しそうにないので、読者は読むのがイヤになってしまいますが、窮地を簡単に脱せるほど強そうだと、主人公が窮地に陥ってもはらはらせず、退屈に感じてしまうのです

図にすると、以下のようになります。


このため、能力が低すぎにも高すぎにも見えないように、調節してあるのです。

これは、物語が「(5)チェンソーの悪魔が地獄で凄いことをやる」というシーンから始まらなかった理由でもあります。

チェンソーの悪魔が凄いことが読者に分かってしまうと、デンジが窮地に陥っても「凄いチェンソーの悪魔と合体したデンジは、どうせ凄い悪魔の力で勝つんだろ」と思うようになるので、読者は、あまりハラハラ、どきどき、しなくなってしまうのです。



第二に、この物語のラストの大どんでん返しが成立しなくなってしまうからです。
「読者にAだと思わせておいて、Bという展開にする」というのがどんでん返しですが、
B=「ポチタの正体は、あらゆる悪魔の中でも最強クラスに強い地獄のヒーローチェンソーマン」なので、
Aは、その対極、すなわち、なるべく弱く見せないといけません。
しかし、弱すぎると、読者は「こんな弱いやつは、なんの活躍もしそうにない」と感じて、期待できず、感情移入できなくなってしまいます。
そこで、「読者が期待できるくらいには強く、どんでん返しのAとして機能するぐらいには弱い」という程度に、強さを調節しておく必要があるのです。
先程の図に、これを書き加えると、下図のようになります。





キャラ

感情移入には、悲惨・動機・期待の他に、もう一つ重要な要素が必要です。
それが、冒頭の1ページ目に描かれています。
それを確認するため、もう一度、冒頭1ページ目を引用します。


それは、「キャラが立つ」という要素です。
このページの、どのコマが、どういう風にキャラを立たせているのでしょうか?

登場人物の多くがやっている言動をやっても、キャラは立ちません
スマホをいじっても、食べても、学校に行っても、会社に行っても、電車に乗っても、自転車に乗っても、トイレに行っても、寝ても、そんなことは誰でもやるので、キャラは立ちません
キャラを立てるには、登場人物の多くがやらない言動をしなければなりません。

このページでは、他の登場人物がやらない行動をデンジがいくつもやっているのが分かります。

(1)木を切って月収6万円をもらってる。
(2)腎臓を売る。
(3)右目を売る。
(4)睾丸を売る。
(5)3804万円の借金を抱えている。
(6)ポチタ(チェンソーの悪魔)を飼っている。

これらのうち(1)~(5)は「借金」に起因します。
なので、冒頭での要素関連図は以下のようにしておきましょう。


キャラを立てる行動は、トマトの悪魔のシーンでも行われています。
もう一度以下に引用します。

(『チェンソーマン』第一巻の2ページ目(見開き)を引用)


(『チェンソーマン』第一巻の3ページ目の1コマ目を引用)


それは、「チェンソーの悪魔の力を使って悪魔を倒す」という行動です。
悪魔を倒す登場人物は他にもたくさん出てきますが、チェンソーの悪魔の力で悪魔を倒すのはデンジだけです。


これまでのシーンを整理すると、下図のようになります。


(12)と(13)の間のシーンから始まった理由の一つは、このように、「キャラが立ちやすいから」というものです。


このように、これら4つの要因から、少なくとも(12)以降のシーンから始めると、読者を感情移入させやすいことが分かります。






使い捨て要素と投資要素


物語要素には、第一話だけで使われる「使い捨て要素」と、第二話以降でも使われる「投資要素」とがあります。


キャラ・期待・感情移入・悪魔の力ゲットは、物語全体で使われる「投資要素」です。これらは、第一話のためだけでなく、物語全体のために育成されます。

借金・悲惨・主人公の動機・敵の動機は、第一話だけで使われ、それ以降は使われません。第一話のためだけに作られる「使い捨て要素」です。
たとえば、第一話で作られた主人公の動機は、第一話のクライマックスで消滅します。





舞台

冒頭1ページ目の最初の2コマは、これまで説明したこと以外にも、重要な機能を担っています。

(『チェンソーマン』第一巻より引用)


それはなんでしょうか?

この2つのコマから、電柱、電線、家の形状がわかります。
また、お金の単位が円であること、腎臓を売ってお金に変えられるほど医療技術が発達していることもわかります。
これらの情報から、読者は、「ここは現在の日本っぽいところだ」と理解します。

つまり、舞台の「説明」をやっているのです。

同様に、冒頭で舞台の説明をやっているマンガや小説は多いです。

たとえば、『代紋take2』の冒頭の1ページ目は以下のようになっています。

(『代紋take2』第一巻より引用)


「ピンクレディーとインベーダーゲームが流行している時代の都会」が舞台であることを「説明」しているのがわかります。

ソードアート・オンライン』の冒頭は以下のようになっています。

無限の蒼穹に浮かぶ巨大な石と鉄の城。
それがこの世界の全てだ。
職人クラスの酔狂な一団がひと月がかりで測量したところ、基部フロアの直径はおよそ十キロメートル、世田谷区がすっぽり入ってしまうほどもあったという。その上に無慮百に及ぶ階層が積み重なっているというのだから、茫漠とした広大さは想像を絶する。総データ量などとても推し量ることができない。

(『ソードアート・オンライン』より引用)

読者は『ソードアート・オンライン』というタイトルと この書き出しから、「これは、どうもゲームの中が舞台らしい」と理解します。

半村良『妖星伝』の冒頭は以下のようになっています。

下野壬生三万石。正徳年間に移封があって、以来領主は鳥居家。日光西街道の城下町で近在の産物が集まり、下野では聞こえた市場町でもある。

半村良『妖星伝』より引用

どうやら、江戸時代の栃木県のあたりが舞台であることがわかります。


なぜ、冒頭で舞台の説明をするのでしょうか?
舞台がどこだかわからないまま物語を進めると、リアリティが希薄になり、物語の面白さが減ってしまうからです。

この要素をシーン構成図に加えると、以下のようになります。






なぜヒゲメガネ?


「借金」→「トマトの悪魔」の次には、どのようなシーンが必要でしょうか?


借金の話と、トマトの悪魔の話が終わったら、次は何を読者に提示すべきなのでしょうか?

では、実際に何が提示されているのか、3ページ目全体を見てみましょう。

(『チェンソーマン』第一巻より引用)


ヒゲメガネの人とデンジとの会話になりました。

なぜでしょうか?

そもそも、このヒゲメガネの人はなぜ必要なのでしょうか?

それについて考えるために、先程作った要素関連図を見てみましょう。


この図を見る限り、別にヒゲメガネがいなくても、読者は主人公に感情移入するし、主人公はチェンソーの悪魔の力を手に入れられます

じゃあ、このヒゲメガネは、なんで登場したんでしょうか?

それを、より高解像度で考えるため、先程の必要性の連鎖をもう一度確認してみましょう。


やはり、ヒゲメガネの必要性がわかりません。
チェンソーの悪魔の力をデンジが身につけるためには、ゾンビの悪魔が必要なことはわかります。
逆に言うと、ゾンビの悪魔さえいれば、事足りるのではないでしょうか?

実は、ヒゲメガネは、第一話のミッションを遂行するのに必要なのです。
この物語の場合、第一話のミッションを優先度の高い順に並べると、以下のようになります。

(A)離脱させずに第一話を最後まで読ませる。
(B)第二話を読みたい気にさせる。
(C)主人公に感情移入させる。
(D)主人公のキャラを立てる。
(E)舞台の説明をする。
(F)第二話以降のための伏線を張る。

このうち、(B)第二話を読みたい気にさせる最も一般的な方法は、「第一話を読んで面白かった」と思ってもらうことです。
それをやるための定番の方法の一つは、第一話にクライマックスシーンを作ることです。

なので、クライマックスシーンを作るため、デンジはゾンビの悪魔を倒すことにしましょう。
イベントシーケンス図にすると、以下のようになります。


つまり、「ポチタと合体して、チェンソーの悪魔を身につけた人間として復活したデンジが、ゾンビの悪魔を倒す」というのをクライマックスシーンにするのです。
これだと面白いでしょうか?

面白くないです。

では、「ゾンビの悪魔がすごくたくさんの人を殺している」という設定にしたらどうでしょうか?


そうすると、ゾンビの悪魔はすごく悪いやつだということになります。
すごく悪いやつをデンジが倒したら、読者はスカッとするのではないでしょうか?

しかし、単なる「悪いやつ」よりも「『主人公』もしくは『主人公が愛する/守りたい者』に酷いことをしているやつ」を主人公が倒す方が、感情移入しやすいし、面白くなりやすいです

では、「ゾンビの悪魔がデンジに酷いことをした」という設定はどうでしょうか?
その設定で図を書き直すと、以下のようになります。

たとえば、「ゾンビの悪魔がデンジの両親を殺した」という設定はどうでしょうか?
すると、「デンジはゾンビの悪魔に両親を殺されたので、ゾンビの悪魔に復讐するためにデビルハンターになった」という筋書きになり、辻褄が合います。

しかし、それだと、リアリティがいまいちです。
物語において重要な「リアリティ」は、日常で使われる「リアリティ」という言葉とは少し違います。
日常語のリアリティは「現実にありうるか」を問題にしますが、物語におけるリアリティは「現実にありそうだと、読者が感じるか」が問題となります
物語のリアリティで重要なのは、「現実感、手触り感、生っぽさ、生活感」です。
読者のほとんどは、実際の生活の中で本物の悪魔と関わった体験がないので、悪魔が人間に対してやる「酷いこと」だと、どうしてもリアリティを感じにくいのです。
そこで、悪魔の代わりに、人間がデンジに対して「酷いこと」をやることにします。
それがヒゲメガネの存在意義です。
ヒゲメガネはヤクザです。ヤクザたちがデンジに対して「酷いこと」をやるようにするのです。

しかし、そうすると、ゾンビの悪魔とヤクザの二種類の敵がいることになります。
敵が複数いると、話にまとまりが無くなって、散漫になってしまうのではないでしょうか。

この問題を解決するため、この物語の第一話では、「ゾンビの悪魔がヤクザを操ってデンジとポチタを殺す」という方法を取りました。
なので、この物語の第一話のイベントシーケンスは以下のようになっています。


このイベントシーケンスなら、強欲な領主の搾取に長年苦しんできた百姓が一揆を起こすように、長年、ずっとヤクザに搾取され、貧困の中で苦しんできたデンジが、チェンソーの悪魔の力を手に入れたことで、ヤクザとゾンビの悪魔をまとめてやっつけるカタルシスが得られます

3ページ目にヒゲメガネの人が登場したのは、これが理由です。

もう一度3ページ目全体を引用します:

(『チェンソーマン』第一巻より引用)

改めて3ページ目の一コマ目を見ると、一コマ目にもヤクザがいることが分かります。
なので、シーンの流れは以下のようになります。


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