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第五章  おプロじゃなくても

 まんじろうとアールは暖かいオレンジ色に包まれた廊下を抜けて、お風呂場に着いていた。そこは二つの部屋に分かれていて、手前の部屋には様々なお風呂グッズが並べられていた。バスタオルにパジャマ、石鹸に加えて湯船に浮かべられるおもちゃまで揃っている。
「はい、それじゃあ~ね~、一緒に選びましょうかね~」
 アールはまんじろうの手を優しく握り、部屋の中を案内した。そこはカラッとしていて明るく、壁紙は淡い水色で清潔感が漂っている。更に窓の数が他の部屋よりも多めで、窓を右と左から寄せて真ん中にガラスが来るようにしてあり、空気の出入りがしやすいように工夫されていた。まんじろうは部屋を訪れてから予想外の出来事で頭がいっぱいだった。「あの、あのね、アールくん。ここは一体なんなの?お風呂っていったらしめしめ~じめじめ~で、静かな所だよね?でもここは、まるでお店屋さんみたいに明るいよ?」
 まんじろうからの止まらない質問にアールはまったり答え始めた。するとこの部屋はお風呂に入る前にまずはワクワクして貰おうと考えた空間で、お風呂が苦手な多くのぬいぐるみにとっては緊張が解れる良い時間なのだそうだ。
 実際、まんじろうもこの部屋に入ってからというもの、にんじんモチーフのお風呂グッズに目を光らせて、側からはお風呂嫌いには到底見えなかった。
 アールと一緒に部屋を巡ったまんじろうは数分後、初めての自分専用お風呂グッズを手に入れた。
 にんじん柄のパジャマやタオル、マーガレットもよく使っているという森の香りのする石鹸、そして、お風呂に浮かべるまんじろうの新しい相棒のアヒルさんだ。まんじろうは既に何かをやり遂げたと言わんばかりの満足そうな表情をしていた。アールはその様子を優しい眼差しで見つめている。
「さてさて〜、まんじろう〜。今体験して貰ったお風呂の準備はどうだったかな〜?これまでと違ってすごくワクワクしたんじゃないかな〜?こうやってまずは、自分の好きなものを側に置いておくことが大切なんだ〜よ〜」
 アールはまた器用な手をにぎにぎして、アヒルさんをぎゅっと抱きしめているまんじろうに話しかけた。抱かれたアヒルはこれからのお風呂を楽しみにしているのかまんじろうに笑いかけているみたいだ。まんじろうも緊張がほぐれ、アールの説明にうんうんと頷き、しっかり聞いている。
「それじゃあ、まんじろう~。早速お風呂に入っていくから、こっちのかごにお風呂セットを入れて、石鹸とアヒルくんだけ持って~ね~」
 アールの案内通りに準備をしたまんじろうはお風呂場の入り口にぽてぽてと向かった。そしてその場で二、三回ジャンプをした。着地する度に、もふんっと全身のふわふわな毛が心地よく揺れている。緊張が解れたとは言え、苦手なものに立ち向かうには心の準備が必要なものだ。アールもその様子を見て、アールを待つ間に答えていた問診の結果を先に話し始めた。 
「まんじろうの症状はオフロニガテの初期だ~よ。具体的には体を覆うような湿気に敏感で、モフ毛の湿り始めが一番不快感を覚えるみたいだ〜よ〜。でもお風呂嫌いのぬいぐるみの中では軽い方で、ポイントを抑えればむしろお風呂が好きになるタイプだから〜ね〜。安心してね〜。じゃあ、扉を開けるよ」

 アールの説明が終わるのと同時にお風呂場の扉が開けられた。
 確かにアールの言ったようにまんじろうはお風呂場のドアを開けた瞬間にいつも体をギュッと丸めて我慢しているようだし、お風呂に入りしばらくすれば落ち着くようだった。苦手なものが続けて目の前に現れれば、体は習慣のように意識せずとも動いてしまうものだ。
 そしてまんじろうは今も体を丸めてアヒルさんにギュッと抱き付いている。
「はい、じゃあ一歩足を前に出してみて〜」
 そう言われてまず右足をプルプルさせながらお風呂場の床にそーっと、まるでバレてはいけないかのように伸ばしていく。そして、少し遅れて左足もモフッと着地するとまんじろうの両足はその場で何度も飛んだり跳ねたりしていた。
「アールくん!!!!この床すごいよ、すごくからからだよ!!!しめしめじゃない!」
 まんじろうは足から伝わる喜びを素直にアールへと伝えた。アールはまんじろうが喜んでいる姿を見て心がじわーっと満たされていった。 
 もちろんこれまでおプロとしてここに来てくれるぬいぐるみのためにお仕事をしてきて、感謝の言葉も多く貰ってきた。それでもこんなに些細なことにも気が付いて喜んでくれるぬいぐるみは初めてだったのだ。アールはこの気持ちをまんじろうに伝えたくなった。
「まんじろう、こんなに喜んでくれて本当にありがとうだ~よ。でも、これだけじゃないんだ~よ~。顔に手をやってみて?いつもより楽じゃな~い?」
 アールはまんじろうの手を取り、両手をもっふりとした頬っぺたに連れて行った。まんじろうは何度も頬っぺたに触れ、いつもと違う自分の様子にびっくりしている。
「アールくん、ここってお風呂場だよね……?」
 まんじろうはこれまたアールが喜びそうな反応をしている。
「そうだ~よ~、お風呂場だ~よ~!窓を開けて湿気を溜め込まないようにしているんだ~、それにお風呂場自体も暖めてあるから湯気が増えることもないよ~」
 アールはまんじろうが全身で喜びを伝えてくれたことが嬉しくて、説明をしつつも、ついつい顔がゆるゆるになってしまう。
 まんじろうはアールからのお風呂場に関する説明を終えた後もぴょんぴょん跳ねたり、アールに質問をしたりしていた。
 その後はアールからの石鹸の泡立て方や湯舟での簡単マッサージの仕方など、お風呂を快適で楽しい時間にするためのアドバイスを貰った。
 そして、まんじろうからの、今日は来て良かったよ!ありがとうね!の言葉を貰った瞬間、アールのこれまで隠していた心の声が漏れたのだった。
「今日まんじろうに会えていなかったら、ぼく、おプロを辞めていたかも知れないな~」
 まんじろうはアールの呟きに、うん、とだけ答えた。何となくアールが自分から話し始めてくれそうな気がしたからだ。
 それにしても、アールがおプロを辞めようと思っていたなんて、まんじろうは全く想像できずにいた。今日一日しか話していないけれども、今のまんじろうの状態をすぐに見極めて適切なアドバイスをするだなんて、腕前がなければできないことに違いない。自分が得意なことでぬいぐるみのみんなの力になれるなんて、まんじろうにとっては羨ましい限りだった。
「ぼくはね~、アライグマの中でも特に手先が器用だからおプロになるように勧められたんだ~、まぁお風呂は大好きだし、ここのおプロ場を囲んでいるお家に住めるし、それに自分に出来ることがあるならやってみようかな~って思ってたんだ~よ」
 まんじろうは、うんうんとお風呂から上がったアヒル君を抱っこして頷いている。もし自分にしかできないことがあるなら、それが自分の天職だと一度は思うのではないか。でも、アールは悩んでいた。「やっぱり、自分がやりたくて始めたことではなかったから、上手くいかなかった時に辛いと感じすぎてしまうんだ~よ~。嬉しいことがたくさんあっても、辛いことにばかり心が動いてしまうんだ」
 アールは恥ずかしいのか、顔を背けるように足元に置いてあったお風呂グッズを拾い上げた。それはまんじろうにアドバイスをするためのアール専用道具だった。まんじろうはアールの気持ちを心の中に広げてみた。そしてまんじろうはアールにするべき答えを口にした。
「アールくん、今日は会えて本当に嬉しかったよ。ありがとう!ぼくの苦手なお風呂を一緒に素敵なものにしてくれて、ありがとう!そして、今日までおプロを続けてくれてありがとう!また、会いに来るね!」
 アールはまんじろうから貰った言葉をじんわりと心の中にしみこませた。そして、初めて会った時のように、にぎにぎポーズをして見せたのだった。
 その後まんじろう達はなんだかすぐに別れるのが惜しくて、しばらく空いている部屋でモカも加えて話していた。
 その中でアールから、ここのおプロ場を訪れるぬいぐるみの話を聞き、そばくんが言っていた、気を付けてね!の意味を理解した。
 どうやらこのクチバシ町ハネシロ町境おプロ場は、他のおプロ場よりも深刻な状態のぬいぐるみがよく訪れるらしい。それは想像以上にひどいもので、例えば体は毛玉だらけで、歩くのもつらい、そんなぬいぐるみがいる。それをアールは一匹一匹時間を取り、自分を大切にできるように回復させていくのだ。
「何かのプロじゃなくてもいいんだ。誰かのために何かしたいと思ったら、自分ができることをしてあげて欲しいんだ。側にいるだけでもいい。それで救われるぬいぐるみもいるから。マーガレットちゃんだって、まんじろうの側にいたからこそできる最大のことをしようと、ぼくを紹介してくれたんだよ。マーガレットちゃんはまんじろうのために、まんじろうはぼくに最大級の感謝をくれて、ぼくはそれに答えようとおプロとして頑張った。誰かのためにしてあげたいの輪で優しさが広がったんだ~よ」
 まんじろうは今回の全ての出来事を深く心に刻んだ。こんなにも誰かのことを想ってくれるぬいぐるみがいる、その事実がまんじろうにとって心から嬉しいことだった。そして、まんじろうも自分にできることをしたいと思った。

 よく晴れたある日のこと。

「まんじろう、ぬい広場前のおプロ場に行くしょば~!一緒にお風呂入ろうしょば~!」

 そばくんがお風呂セットを持ってまんじろうに会いに来ている。

「もちろんだよ!あと、今日はハネシロ町のお友達も誘っていいかな?おプロさんから、誰かと一緒にお風呂へ入ってみようって言われてるらしくて!」

 まんじろうもお気に入りを詰め込んだ自分専用のお風呂セットを持って答えた。にんじん柄の新しいパジャマをそばくんに見せびらかしたいようなのか、さっきからうずうずしている。

「もちろんしょば!まんじろうとなら、お風呂が楽しいっていうぬいぐるみが最近増えたしょばからね!お風呂好きを増やしていこうしょば!」

 まんじろうとそばくんはそれぞれの大好きを鞄の中に入れ込んで、今日もおプロ場に向かうのだ。少しでも楽しいと思ってもらえるように。



終わり

  


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