群と孤灯

敵基地攻撃よりも恐怖と欠乏をなくすこと


 

7年前に、安倍政権による強硬的な国会運営のもと成立をみた「安全保障関連法」(安保法)は、集団的自衛権を一部に採り入れたものだった。〈集団的自衛権〉とは、同盟国への武力攻撃を自国へのものと見なし、これに自衛権を行使できるとするものだ。憲法9条が容れるのは〈個別的自衛権〉、すなわち日本が直接攻撃されたときのみ自衛権を使えるという通念を、この法律は大きく変えた。

 本年12月16日、岸田内閣は、安保法と並び日本の安全保障政策を根本から変えることを閣議決定した。〈敵基地攻撃能力〉の保有である。日本への攻撃に着手した国家やテロ集団に対し、自衛のためその基地を攻撃できるようにすることを認めるというものだ。それを政府は「反撃能力」と称しているが(戦争中「退却」を「転進」といったように)、国際法で禁じる先制攻撃を許しかねない内容だ。軍靴の音がありありと聞こえてくる。

 中国が台湾海峡や南シナ海に進出し、北朝鮮が日本に向けてミサイルを繰り返し発射していることを踏まえてのことだろう、閣議決定では、「厳しく、複雑な安全保障環境に対応するため」の「反撃能力」だとしている。

 中国や北朝鮮の軍事行動がエスカレートしているのは、事実だ。しかし、論理に飛躍がある。


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 おまえの基地の攻撃だってできるんだ、そういわれた中国や北朝鮮は、それなら日本よりすぐれた武器をもとう、となるだろう。日本はさらに優れた武器をもち……結局は、どちらかが血を吐いて倒れるまで走り続ける「死のマラソン」を競うことになる。まして両国は核兵器を保有している。被爆国日本も、いつかは核武装するのだろうか。

 一体、武力で国民が守れるのか? 戦争末期、沖縄では住民が戦闘に巻き込まれたし、中国大陸に展開していた関東軍は、敗戦後満州の同胞を見棄てて、さっさと撤退した。作家の司馬遼太郎は徴用され、敗戦を栃木県佐野で迎えたが、本土決戦になったら東京から逃げて来た民は撃ち殺せと上官から指示され、愕然としたという。勝つためには市民は見棄てるというのが、軍隊の本質ではあるまいか。そこにのみ頼ることは、大いなる危険があろう。

 〈自衛〉という言葉もまた、危ういものだ。81年前に対英米開戦を決めたのは、日本を経済封鎖する両国に対して自衛のために戦争をするという大義のもとでのことだった。本年、ウクライナに侵攻したロシアは、ウクライナ国内の自国民の保護を名目にしたのも、記憶に新しい。〈自衛〉は、為政者が戦争を仕かける際に国民を納得させるには、重宝な言葉なのだ。

 軍拡競争に勝つことがほんとうに日本にとって益になることかどうかも、考えなければならない。私はそうは思わない。憲法の理念である戦争回避のほうが、ずっと日本のためになるだろうと思う。

 敵と仮想された中国は、隣国である。日本が米国とともに中国と実力で衝突することになったなら――被害の多くは、日本が負うことになるのだ。特に、原発にミサイルが命中したならどうなるのかを考えれば、日本の被るものは、広島・長崎の悲劇に比べられるだろう。

 コストは? 借金だのみの日本の財政で、死のマラソンに例[たと]うような軍拡競争ができるのか? コロナ対策、少子高齢化対策、貧困対策、雇用対策、震災復興……政府が看板とするこういった事業にこそ、限られた国の予算を回すのが、多くの国民の福利に適うはずではないか。

 そもそも為政者たちは「国難」というが、借金を次の世代まで負わせる財政難が、あるいは第2次岸田内閣では、均す[なら-す]と毎月閣僚が1人辞任していることが、また統一教会と癒着する与党こそが、〈国難〉なのではないか……。


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 周辺国の軍事活動と敵基地攻撃能力の保有を因果関係で結ぶことには、相当に無理がある。これは「いかにしたら戦争に勝てるか」しか考えていないこと、いかにしたら「戦争を防げるか」についての思考が欠如していることによるものと思われる。だが最大の欠陥は、これは閣議決定で決めていい問題ではないことに気づかない――いや、気づかないふりをしていることだ。集団的自衛権も敵基地攻撃能力も憲法に触れている点で、内閣を超越した問題なのである。

 憲法第9条は、戦争の放棄をうたい、戦力・交戦権を否認する。しかしそれでは、外国が侵略に及んだ場合、なにもできないのか? そうではないだろう、ということで、〈専守防衛〉のための戦力――自衛隊をもち、そのための軍事行動は合憲だとした。厳密にいえば、この時点で9条条文に「専守防衛」をしるすべきだったのだろう。それはせず、しかし解釈として定着した。国民もそう考えるようになっている。最早、専守防衛は、9条の行間に存在している。明らかにこれを超える防衛能力(戦力といった方がいいだろう)が、集団的自衛権であり、敵基地攻撃能力だ。これらを採り込んだ法律や閣議決定は、自ずと、憲法に反する。

 安倍政権なり岸田政権なりが憲法に反することを行えば、その政権は〈立憲主義〉を犯したということだ(岸田首相は、安倍元首相の国葬の祭主となったことで、その正当な後継者たり得ている)。憲法は国家権力を縛るものである。この考えが立憲主義だ。国家権力側が、憲法というおのれの縛め[いまし—め]を解いたならどうなるか。鎖をはずされた猛犬のように、凶暴に暴走するだろう。81年前の日本、現在のプーチン政権がそのいい例である。

 81年前に自衛のためだといってはじめた戦争は、230万の日本人を含めた大勢のアジア太平洋地域の住民が犠牲となって、終わった。その反省から、いまの憲法が生まれた。その前文はいう。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と。また9条は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は……永久にこれを放棄する」そういっている。

 

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 世界を見渡せば、ウクライナ、ミャンマー、香港、アフガニスタン、パレスチナ、シリア……と、戦争、紛争、弾圧が至るところで起こっている。これは皆、世界経済を失速させ、地球環境を悪化させるものだ。やがては、次なる戦争の「卵」にもなるだろう。全人類ないしは地球全体というマクロな視野でみたとき、武力はなんの解決にもならないことがよく解かる。

 ふたたび憲法前文を引こう。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、栄誉ある地位を占めたいと思う」「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 救世主[メシア]の言葉でもあるまいに、と私でさえも思ったものだが、いまの世界の情勢をみるとき、この言葉は光輝を発するようだ。この輝きを、奪われてはなるまい。


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