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このままどうなるのか

早いもので気がつけば大学を卒業し、社会に出て6ヶ月と半月が過ぎようとしている。
就職活動で何度口にしたか分からない「やりがい」は、毎月振り込まれる給料や顧客からの感謝だったり、少しづつではあるが感じることができている。

社会のほんの一部として働くようになり少しのやりがいを感じるよになったと同時に失った、或いは鈍くなったモノがある。
「感受性」である。

自身の五感を通じて良い/悪いと思えることを感受性と自分の中では定義している。
そんな私は自身の感受性を目で見て確認することができる。

多感であればすぐに0になり、16や32に補充することができる。ただ少しのやりがいを手にした代わりに数字が何ヶ月経っても0になることが少なくなってきた。
私は自身の感受性をフィルムカメラの残りの枚数で確認することができる。

フィルムカメラはiPhoneや一眼レフとは違い、写真を撮るためには16枚ないしは32枚撮りのフィルムを買い、撮り終えた後には現像をする必要がある。

私にとってお金と手間と時間が掛かるフィルムカメラのシャッターの重みはデジタルと比べて重いし、感覚的に良いと思った瞬間にしか撮りたいと思わない。




良いと思える瞬間が多ければ多いほど、必然的にシャッターを切る回数も増える。
ただここ数ヶ月、シャッターを切ることがほぼ無くなってしまった。

もちろん時間の余裕は学生の時と今では大きく異なる。がそれにしても良いと思える瞬間が少なくなったとフィルムの残り枚数でも実感する。

人口や情報、流行などほぼ全ての事柄において最先端の東京に就職と同時に上京した。趣味の建築や芸術に関しても圧倒的な数で、触れる機会が多いにも関わらず、私の感受性は日に日に劣ってきている。

原因もまだ自分で理解できない。解決策も見出すことができていない。

このまま私は無になってしまうのだろうか。

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