見出し画像

知らない街で死なない

こんにちは、不可逆です。

前回の「退屈でも死なない」は結構がんばって書きました。分量も少し長めです。時々はそういうふうに気合を入れて書く日があってもいいですよね。

しかし書くのを継続するためにはハードルを上げすぎないことも大事です。ということで、今日はちょっと肩の力を抜いて書いてみようと思います。

×

みなさんは散歩ってしますか? 私はカメラを持って知らない場所をあてもなく歩くのが好きで、休みの日や夏の涼しい夜に時々しています。

目的なくただ歩くことが苦手だという人もいますよね。散歩に限らず、目的がない行動に耐えられないという人もいます。しかし私は、時々は目的から開放される自由さを味わうべきだと思っているのです。

知らない駅で電車を降りたら、できるだけ迷子になりやすそうな方向へ向かってひたすら歩きます。できるだけ先の見えない、入り組んだ道を選んで。そうやって歩き続けているうちにいつしか道を選ぶのも無意識になってきて、ハッ、と我に返ったとき、自分がどこにいるのか、どっちから歩いてきたのかすら本当にわからなくなる一瞬があります。

その瞬間、私はどこでもない場所にいるような錯覚にとらわれるのです。

日本地図を開いてもどこにも載っていない、元いた世界から切り離された透明な場所。


子どもの頃に迷子になったときも、これに似た感覚だったような気がします。そこがまったく見知らぬ場所で、まわりに親しみを感じるものが何ひとつないということに、なぜか胸がドクンドクンと脈打つのです。それが不安なのか、好奇心なのか、よくわからなくて怖くなってくるような。

小さい頃はデパートの中でもよく迷子になりました。でもデパートでは本当の意味で迷子にはならないという安心感もありました。私はいつも勝手に親の元を離れてどこかへ行ってしまって、気の済むまで好きなところをほっつき歩いては、飽きると迷子センターのところへ行ってアナウンスで親を呼び出してもらったものです。

今も同じで、本当の意味で迷子になることはとても難しくなりました。手の中にいつもiPhoneがあるからです。


この小さなガラス張りのモノリスと、どう付き合っていけばいいのでしょう。それはこれからの人生を通じてずっと考えていかなければならないことかもしれません。今後スマホを持たない選択をする人も少しずつ増えてくると思います。私もいつか手放したいと思っています。

しかし現状は紋切り型のiPhoneユーザーなので、たとえ知らない街で一瞬迷子になったとしても、本当に困ったときはGoogleマップがあるという安心感が心のなかにあります。iPhoneとネットワークの絆で結ばれているせいで、私たちは迷子にもなれないのです。

(iPhoneは家に置いてくればいいじゃないか、という指摘はごもっともです。次回はそうしてみます。)


しかしこれは好機でもあります。誰もがスマホを持っているということは、誰でも気軽に迷子になりに行けるということだからです。

携帯を見ずに完全に迷子になるまで適当に歩く、ただそれだけです。適当に考え事をしながらでもいいし、写真を撮りながらでも音楽を聞きながらでもいいです。とにかく「あれっ、ここどこ!?」っていう瞬間を味わってみて欲しいんです。

スマホがあれば、最悪駅から遠くてもタクシーも呼べるし、どうとでもなります。便利な時代になったものですね。

×

ここではないどこかへ行きたい、という願望を心のどこかで抱いている人は多いのではないかと思います。もちろんそれは決して叶えられない願望です。自分がいる場所が常に「ここ」だからです。

それでもほんの少しの慰めでよければ、ぜひ知らない街で地図を見ずに迷子になるまで歩いてみてください。大丈夫です。迷子になっても死にはしないので。それにiPhoneがあるから安心です。

知っている世界から切り離されて、宙吊りになった、どこでもない場所へ来てしまったような、めまい。

知らない街に来るたびに、それを探し求めて私はうろうろと歩き回ってしまうのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?