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廃墟マニア 4/5 

 「せっかくだから、担任の名前。小学校一年からの。憶えてる?」
 教壇の右手にあったはずの教師の机と座席、viridiはその場所に椅子をもっていくと腰をおろし、脚を組んで、言った。深紅の包みから挑発的に伸びだしたviridiの脚が、五月のそよ風にまばゆかった。だが、窓の外にあふれるみずみずしい葉むらに戯れる光はさらにキラキラときらめいていた。一時期、学校というところがひどく荒廃したことがあった。この教室の窓ガラスのほとんどが割れたまま放置されているのは、まさかその名残というわけではあるまい。床に散乱したガラスの破片、土埃、枯れ葉、小動物の死骸、汚れ、傷んだまま散らかった数々の椅子……教室のなかは荒れ果てていることには変わりないが、教師や生徒がいて荒廃しているのと、忘却のなかに放置されて荒涼としているのとは、やはりなにか違うのだろうか? ほとんどの窓ガラスが割れた教室で授業をうける、私にはそんな経験はなかった。だが、四歳下の妹はそんな経験を持っていた。妹のかよう高校の教室の窓ガラスという窓ガラスがほとんど割れたまま放置されているというのを聞いて、そしてその当時はどこの公立高校もそんなふうに荒廃していると聞いて、驚いた記憶がある。Viridiにも妹のような経験はあるまい。Viridiは、きっと、表面はおだやかな状態ではあるが、ふかい荒廃や腐食がはじまった最初の世代だろう。今では、この校舎は、信じられないほど美しい若いみどりにすっぽりと埋もれて穏やかな眠りについていた。
 「トモヒコくん、憶えてますか、担任の先生のお名前……」
 Viridiは脚を組みかえると、わざわざ用意してきたのか、実は普段から使っているのか、メガネをかけて、その縁を指ですりあげて繰りかえした。脚を組みかえるとき、viridiが下着を着けていないことがわかった。
 「ぁ、ええと……」
 白かったにちがいない天井は、カビや雨漏りのあとでずず黒かった。割れた窓から、真葛がなだれ込んできていることに、今気がついた。
 
  クマダ ミチコ
 
 やっと、私は、ためらいながら一人名前を挙げた。
 「いつの先生?」
 「小一」
 「どんな先生?」
 「ん……」
 はっきりと憶えていた。ほっそりとした、華奢で繊細な体つき。ぴったりとはりついた臙脂のニットのセーター。臙脂のセーターはミチコ先生のからだのラインをきわだたせていた。おおきくはないがかたちのいい胸の膨らみ。教師らしい、つつましやかで地味な、タイトな膝丈のスカート。信じられないほどお腹がほっそりとしていた。すこしウエーブした髪がセーターの綺麗ななで肩にかかっていた。楕円レンズのメガネ。いまviridiがかけているのとそっくりな、臙脂色のセルロイドのフレーム。
 母が訴えるのだった、「トモヒコは学校のことをぜんぜん親の私にも話そうともしなくて。よその親御さんは、どんなことでもなんでも話してくれるって、それはそれは嬉しそうにいうんですよ」
 私と、クマダミチコ先生と、母。不思議なことに、それが、クマダミチコ先生に関する私の唯一の記憶だった。服やスカートや髪型やメガネや……すべてがその日、そのときのクマダミチコ先生だった。
 「それは……」
 クマダミチコ先生は一瞬困惑したように眉間を曇らせて私を見ると、口元をくっとひきつらせ、微笑んで言った。クマダミチコ先生の顔。はっきりと思い出す。地味な唇、ひきつった口元のうえにはちいさなほくろ。いや、ちがう、そうじゃないよ、せんせい、私は心のなかで呟いていた。
 「それは、トモヒコくんの独立心が強いからですよ。他のお子さんよりも、心の成長がはやいんですよ、トモヒコくんは」
 ちがう、と私は心のなかでくり返し呟きつづけた。せんせいはかんちがいしてる、ぼくはただこいつらを信頼していないだけなのに。いままでせんせいに感じたことのなかった距離をぼくは感じた。だが、私をほんとうにがっかりさせていたのは、今回限りで、クマダミチコ先生がいなくなることだった。
 「はい、このクマダというちょっと厳つい名字とも、今月限りでお別れなんです」
 母がなにか面談には直接関係のない余計なことを言ったにちがいない。結婚ということが当時の私にはよくわからなかった。それに、結婚するとどうして学校を辞めるのか。体にぴったりとはりついた臙脂のニットのセーター、その長袖の先に露出している先生の手がくっきりと記憶に残っている。
 クマダミチコについて、私はviridiに話さざるをえなかった。
 「くふふ、初恋ね、トモくんの」
 Viridiは冷やかすように言った。
 「そんなもんだろうか。このこと以外、クマダ先生についてはなにも憶えていないのに?」
 私は言葉を切った。
 「それなら、ねえ、トモくん、いまから、クマダミチコ先生とのあたらしい思い出をつくらない?」
 Viridiは挑発的に微笑んだ。
 「ちょうど、こんなメガネをかけてたわけだし……。深紅とはいかないけど、臙脂のニットなわけだし……」
 Viridiは脚を組みかえた。
 「あら、……トモヒコくん? お久しぶり。元気でしたか? クマダミチコ先生よ?」
 Viridiは脚をくずして、上半身をこちらに乗り出して口調を変えて言った。
 「結婚したから……、もう、クマダかどうかわからない」
 私はなぜかうつむいていた。
 「そうね、……じゃ、ミチコ先生って、呼んでみて?」
 もっとこちらに向かって乗り出してくる気配がした。
 私は返事ができなかった。
 「あら? どうしちゃったの? 元気ないのね? 聞こえないわよ?」
 ミチコ先生はまた私の名前を繰りかえした。
 私はようやく顔をあげて思い切って言った。
 「ミチコせんせい……」
 「はい、おひさしぶりね、トモヒコくん。あれから何年? おいくつになったのかしら?」
 Viridiはふいに椅子から立ちあがると、ちかづきながら言った。
 「四十……七、八年」
 「そんなに? そうね、だからトモヒコくんもこんなになっちゃって……。くふふっ、もう、いいおじさんですね」
 私はやっと顔をあげて言った。
 「ミチコ先生は、まだ、あのころとあんまりかわりないみたい……」
 ミチコ先生の華奢なからだがviridiの細いからだにかさなっていた。
 「そう? うれしい。でも、こう見えても、それでも、いろいろと苦労してるのよ、トモヒコくん」
 ミチコ先生は私の目の前にある机のうえに深紅の尻を据えた。
 「こんなことなら、言ってくれればよかったのに。そしたら、臙脂の長袖のニットと地味な膝丈のタイトスカート、用意してきたのにな。似てるんでしょ? あたしの体とミチコ先生の、カ、ラ、ダ……」
 ああ、たしかに、こんなにも細くて華奢なviridiの腕。だが、viridiのからだとミチコ先生の物腰は根本的に違っていた。
 「……たしかに、似てる……。でも、ミチコ先生の物腰は、もっと、禁欲的で控えめだった……」
 「トモヒコくん?」
 不意に立ちあがり、歩き出し、ミチコ先生が私の背後で立ちどまる気配がした。
 「トモヒコくん? 他には? あげられるかな~、担任の先生のおなまえ……」
 「え、……」
 「授業のつづきよ、トモヒコくん」
 ミチコ先生はこんな声だったのだろうか……。こんなしゃべり方、だったのか……。
 「あ、はい、せんせい……」
 私は担任の名前を挙げていった。
  コバヤシゴイチ
  カケガワサナエ
 「……ぁ、ミチコ先生、この人はサナエなんていうけど男なんです。小学五、六年の時の担任で……。ミチコ先生がいなくなってから来たんです。ジャガイモ、っていうあだ名で……。顔がニキビのアトでぶつぶつだから。男だけど、でも、髪も長ながくて。白髪まじりのゴマジオ頭。給食費にみんなが紙幣ばかり入れてくるので、おつりの工面ができないって、泣きながら八つ当たりしてたことがありました……。コバヤシ先生ははげてました、頭頂部が。剣道の有段者で、怖い顔した先生で……。ミチコ先生も知ってますよね、毎日、宿題のドリル、ノート二ページ分とか……。やってこないと、授業中にひとりひとり呼び出して、理由を問いただすんです。ぼくも一回だけ呼び出されたことがあって……ほんとは遊びすぎで宿題の途中で眠っちゃっただけなんですけど、頭が痛かったんです、とか、仮病使っちゃいました……。そしたらあっさり許してくれて……。親の間でも有名でしたよね、厳しいけどいい先生だって。……小学校はこの二人……」
 「そうね、コバヤシゴイチ先生のことはよく存じあげているわ。カケガワサナエ先生は……そうなの、トモヒコくんの五、六年生の時の担任はそんな先生だったのね」
 このふたりの教師について、すこし話しただけなのにつぎつぎと記憶がよみがえってきて、私は言葉で追い切れなくなっていた。鮮明な記憶が豊富で、いまさらながらミチコ先生との記憶がとぼしく、ぼんやりしていることに戸惑った。まるで廃墟のようだと、ふと思った。ほんとうは大切なはずのひとのことがこんなに曖昧になってしまっていて、しかも、今となっては事実かどうかも確かめようがない。それにたいして、なぜか、このふたりの担任の記憶には確信さえあった。
 「……ただ、ミチコ先生の後任の先生の名前は、ぜんぜん、憶えてないんです……」
 私はうしろめたさから言い訳するように言葉をつけ足していた。
 「うれしいな、トモヒコくん……」
 と、ミチコ先生が耳元で囁いた。
 「……じゃ、中学、高校は?」
 ミチコ先生はまた私と距離を置いて言った。天井はカビや雨のシミで黒ずみうすよごれ、床には土埃やムシや小動物の死骸や枯れた植物が散乱し、窓ガラスは割れ放題の教室で、ミチコ先生と私だけの授業はつづいた。
 「中一が、オカダ……」
 容姿は思い出せたが、それ以上名前が出てこなかった。
 「たしか、安泰の『泰』の字がついてたような……。顔は思い浮かぶけど、名前が……」
 「そう……。じゃ、二年は?」
 「二年は……」
 なぜだろう、これもよく思い出せなかった。
 「たぶん、おなじ、オカダ……」
 「うん、そう……。それじゃ、三年は?」
 「ハヤシ……」
 やはり容姿は思い浮かぶが名前は思い出せなかった。
 「なんか、あだ名があって……。なんて言ったかな……。この先生には、『お気に入り』の生徒がいて。授業で問題を出しても、生徒がちょっと先生を小馬鹿にして答えが出てこず、はかどらなくなると、かならず、その生徒を指名してた……その生徒の名前は、わかるんですけど……」
 「そう……。いいわよ、トモヒコくん、担任の先生だけで。それじゃ、高校は?」
 私はすっかり言葉に詰まってしまった。高校一年、二年の時の担任の名前がまったく思い出せなかった。
 「ミチコ先生……。ごめんなさい、思い出せなくて……高一、高二の担任の先生の名前……」
 「そう……?」
 「うん……なんか、ぜんぜん、関心なかったみたいで……でも……」
 「でも?」
 ミチコ先生は私の横に立ってきいてきた。
 「高三の時の担任なら、はっきり憶えてます」
 私はハキハキと言った。ようやくミチコ先生の期待に応えられることが嬉しかった。
 「そうなの。なんていうお名前なの、トモヒコくん」
 「はい、ミチコ先生……。カナイミチコ先生、っていいました。もっとも、カナイは離婚前の名字で……」
 カナイミチコ先生は、私たちが卒業したあと離婚し、学校も変わっていった。私は離婚後の名字はまったく知らなかった。禁欲的で控えめな物腰は似ていたが、クマダミチコ先生とは対照的な、このクマダミチコ先生とは対照的な、豊満な体つきで、肩の下までの長い髪はやわらかくウエーブしていた。教壇ではまったく化粧っ気がない地味なカナイミチコ先生は、ふたりだけで会うときは、すこし派手なと感じるくらいの化粧をしていた。つややかな唇、色っぽい目元、マニキュア……。もちろん、私が高校を卒業してからのことだったが。離婚したカナイミチコ先生には、一歳の男の子がひとりいた。離婚して実家に戻っていた。いろいろ影響が出ないように異動にあわせて離婚したのだが、それまでの数年間、旦那とは二階と一階で別々に暮らしていて、おたがいに体に触れることはもちろん、顔をあわせることもなかった、と。はじめて抱きあったとき、「先生って呼ぶのはやめて」と彼女は言った。ミチコ、と。私は十歳以上も年上の女性を、そんなふうに呼ぶことに、照れくささやばつの悪さや、それから……。別れるとき、結婚したいなどと言いだした私とは遊びだったと、受話器のむこうでカナイミチコ先生はきっぱりと言った。
 「もうひとりの、ミチコ先生? もうひとりのワタシ?」
 クマダミチコ先生はすこし驚いていた。知らず知らずのうちに、私はクマダミチコとカナイミチコを重ねあわせていたのかもしれなかった。職業と名前がおなじというだけで。もし、viridiが言うように、私がクマダミチコ先生に恋をしていたとして、たった七歳の子どもになにができただろう? 愛しあうことなど。ましてや、viridiとのように欲望を満たしあうことなど。そもそも、七歳の私はクマダミチコ先生にどんな欲望を懐いていた、というのだろうか。七歳の子どもがクマダミチコ先生に懐いた欲望は、おそらく、複雑で、天上的で、錯綜していて、あいまいで、多種多様にちがいない。それにくらべれば、今の私、五十四歳の男が目の前のクマダミチコ先生にいだく欲望など、あまりにも単純で、ありふれていて、わかりきっている。
 「それで、トモヒコくん、そのカナイミチコ先生とは、なにかあったの?」
 刺すような目をして、締めつけてくる口調でクマダミチコが言った。嫉妬している目。こんなことに。もう、すぎてしまったことに。それでも、クマダミチコ先生がカナイミチコ先生のことで嫉妬してくれるなんて……。
 「な、なにも、なかったです、ミチコ先生」
 「やめて」
 はたくような口調でクマダミチコは言った。
「……ミチコ先生、だなんて。おなじミチコなんだから。まるで、カナイミチコに話しかけてるみたいよ、いまのトモヒコくんは。ちがう?」
 「そんな……」
 「これからは、クマダ先生、って呼びなさいね。ミチコなんていったら……お仕置きなんだから。いいわね?」
 私はふくれっ面をして黙っていた。
 「悪い子。でも、いいわ……あとでたっぷりお仕置きしてあげるから……。……それで? もうひとりのあたし、カナイミチコとはなにかあったんでしょう、トモヒコくん?」
 「なんにも」
 ふて腐れたまま私は答えた。
 「嘘よ、言いなさい、トモヒコくん」
 クマダミチコは私の背後に立って、高圧的に言った。
 「なにもなかったです、ミチコ先生……」
 「また、ミチコ先生って……」
 挑発しているのが私だった。私はクマダミチコの「お仕置き」を期待していた。
 「ちょうど、こんなにも葛のツルがなだれ込んでるなんて、暗示的ね」
 クマダミチコは手早く真葛のツルを何本か撚りあわせると座っている私を後ろ手に椅子に括りつけた。
 「いけない、トモヒコくん。年上のカナイミチコと、こんなこと、したんでしょう?」
 私の前にあった机を乱暴に蹴りどけて、立ちはだかるようにクマダミチコは言った。私はふてくされたまま黙っていた。
 「強情ね……」
 私の額に人差し指をおしつけると、クマダミチコはゆっくりと、指をはわせていった。眉間、鼻筋、唇、顎、喉、鎖骨のあいだ……
 「縛りつける前に、裸にしておくべきだったわ」
 指を離して、クマダミチコ先生はつづけた。
 「でも、そんな必要もなかったわね、トモヒコくん。……」
 さすがに、クマダミチコ先生はそのあとの言葉は口にできないようだった。
 「お仕置きよ? こんなこと、したんでしょ? 年上のカナイミチコと?」
 私のジッパーをひらき、ズボンと下着を下げると、クマダミチコ先生は言った。
 「もう、こんなになって……」
 私の勃起した生殖器を、クマダミチコは口にふくんだ。
 「したんでしょ?」
 はじめてのフェラチオだったカナイミチコの唇の感触がよみがえってきた。
 「ミチコ……せんせい……」
 私は思わず声を漏らしていた。
 「どっちの……ミチコ?」
 きいたあと、また、ミチコ先生は私の生殖器を口にふくんだ。
 私はなにも答えず、ただ、ミチコ先生の唇と舌の感触に浸っていた。
 「ふふ……いいのよ、トモくん、ふたりのミチコをたのしんで」
 ふいにviridiの声が聞こえた。ふたりのミチコ先生の、対照的なからだつきが思いうかんだ。カナイミチコのフェラチオはぎこちなく、それほど気持ちいいものでもなかった。Viridiのフェラチオは巧みで、なんども逝きそうにさせながら、なかなか逝かせなかった。今思えば、そのぎこちなさが、懐かしく、いとおしかった。……
 
 学校というところには、誰でも、すくなからず、いろいろな思い出が詰まっているにちがいない。いいことばかりとは限らない。いじめたり、いじめられたり。秘密基地や秘密の場所。くらい思い出もあれば、あかるく、たのしい思い出も。そして、クマダミチコ先生とのあたらしい思い出……。私の生殖器を舐めることに堪能して、クマダミチコ先生は、立ちあがった。私におしりを向けると、地味で禁欲的な膝丈のタイトスカートをゆっくりとまくりあげていった。涼風のきらめく五月の光のなかにさらされる、クマダミチコ先生の華奢な太もも。つるりとした小さなおしり。
 「トモヒコくん」
 私の名前を呼び、クマダミチコ先生はおしりを私にこすりつけてきた。上下に、ゆっくりと。クマダミチコ自身の唾液と私のカウパー液でぬるぬるになっている生殖器に。クマダミチコ先生の肌を、硬く、勃起した、ゆで卵のような亀頭が不規則に突きあげていた。私の両膝に手をおき、クマダミチコ先生は優しくこすりあげた。クマダミチコ先生の愛液が、さらに私の男性器をうるおわせた。やがて、ごく自然に、スムースに、クマダミチコ先生の深紅が私の亀頭を呑みこんだ。真葛に絡めとられた私は先生のするままだった。
 「んん、トモヒコくん、おおきい」
 くわえ込むと、まず、亀頭だけをなんども出し入れしてから、クマダミチコ先生はゆっくりと、腰を沈めた。私のふわふわな恥毛にゆったりと腰をおろすように。クマダミチコ先生と私は密着し、ひとつにつながった。
 「こんなこと、したかったんでしょ、トモヒコくん?」
 クマダミチコ先生はやさしく腰を上下しながら、ささやいた。
 「ワカラナイ……」
 私はうっとりして答えた。
 「そうじゃないでしょ? わからない、です。または、わかりません、でしょ? トモヒコくん……」
 クマダミチコ先生は腰の動きをとめると、私の生殖器を軽く締めあげた。
 私は思わずうめき声をあげていた。
 「は、はぃ、クマダ先生……。わかりません……」
 「そうね、ミチコ先生はだめよ。よくできました」
クマダミチコ先生はまたやさしく腰を上下しはじめた。
「……それにしても、トモヒコくんって、ほんとにイケナイ子。ミチコなんて、あたしとおなじ名前の先生とできちゃうなんて……」
 クマダミチコ先生はふかく腰をしずめ、深紅の部分をことさら私におしつけ、こすりつけた。
 「いまも、くらべてるんでしょ? クマダミチコと、カナイミチコ……」
 尻を突き出し、おしつけ、ミチコは激しくこすりつけてきた。
 「あぁ、ミチコ……せんせい」
 「どっちのミチコがいいの、トモヒコくんは?」
 私はあっけなく射精していた。私の膝におかれていたクマダミチコの手指が、射精の瞬間、私に食い込むようだった。体にぴったりとはりついた臙脂のニット、その肘が私の腿にめりこんだ。膝丈の地味なタイトスカートは、まくりあげられているというよりも、ひかえめだった後ろのスリットがいつしか尻まで裂けていて、その裂け目をとおして私たちはつながっていた。
 「あ、ああっ」
 射精と同時に、クマダミチコ先生は腹の底から私の精液を嘔吐するような声をあげた。余韻に浸っているのか、しばらく、クマダミチコ先生は私とつながったまま身動きひとつしなかった。ふいに、ふかいため息をついて息を吹きかえしたクマダミチコ先生は言った。
 「まだ、こんなにかたい……」
 こんどは私とむきあって、腰を沈めてきた。臙脂のニットを胸のうえまでまくりあげ、ニットにつつまれて形のよかったあのふたつの乳房を、腰を使いながら、私の顔に押しつけ、こすりつけてきた。私も夢中でクマダミチコ先生の乳房の肉や乳首をすった。
 「ああ、トモヒコくん、いい子ね」
 私の頭を愛おしげにだきかかえ、クマダミチコ先生は私のうえでリズミカルに肉の歌を奏でた。私の腰もいつしかクマダミチコの深紅のふかみを無私につきあげていた。とけていった。時間のなかに。過去のなかに。なぜ、結婚して辞めてしまうのか。ぼくのことを誤解し、買いかぶったまま。感傷的な気分が私を支配しはじめていた。「ミチコせんせいっ」。その気分を雲散霧消させるために、私はなおさら無我夢中に、クマダミチコ先生の乳房を吸い、深紅をつきあげ、貪るしかなかった。顔が両乳房にめりこみ、うもれ、私はクマダミチコ先生のうちがわを目の当たりにした。ガラスのように透きとおっていて、空っぽで。空虚がひろがっていた。その空虚なかで、ただひとり、私だけが自分を忘れ、孤立して、勃起した男性器がつやつやとしている腰を使いつづけていた。どこにも、クマダミチコなんていなかった。時間のこちらにも、むこう側にも。やがて私もこの空虚のなかに溶けていく。なんどクマダミチコ先生のなかで射精しようが、カナイミチコのなかで逝こうが、viridiと交わろうが……。こんな考えこそが、しかし、感傷にすぎなかった。私はもう一度、クマダミチコ先生の両乳房のやわらかな感触、産毛に結露した私の熱い息、クマダミチコの重力を感じながら、射精した。すくなくとも、この瞬間、この重み、感触はうつろではないように感じた。この刹那に限ってだけは。うつろでないことを願った。
 ……ほんとうにこんなことがあったのだろうか。クマダミチコ先生を抱き、二度も射精した……。あるはずもなかった。あれはクマダミチコ先生などではなく、viridiにすぎなかった。ただ、体にぴったりとはりついた臙脂のニットや地味で禁欲的な膝丈のタイトスカートをはぎとったあとのクマダミチコ先生の感触がべったりと私の肌にはまとわりついていた。むろん、それは、ただviridiの感触にすぎなかった。しかし、クマダミチコ先生であることにもまちがいなかった。あの五月の風がきらめく廃校の教室で、あの日、幼少の頃の私の思い出に新たな思い出が接ぎ木された。Viridiであるクマダミチコ、クマダミチコであるviridi。いや、viridiの肉体にクマダミチコ先生の思い出が移植されたのだった。そして、私は七歳の私の錯綜した欲望のうちのひとつを叶えることができたのだろうか? 
 トモくんのことはわからないけど、と、そんなことをメールに書いてやるとviridiから返信があった。
 
  でも、あたしの欲望は叶ったのよ。トモくんの初恋の女、クマダミチコになってトモくんを犯し、所有するっていう欲望。あの廃校で、あのとき、ふと、あたしに宿った、どうでもいい、気まぐれで、刹那的な欲望。
  たしかに、あの一瞬だけ、あの刹那だけの欲望だったのかもしれない。
  でも、あの一瞬、たしかにあたしはクマダミチコとして、トモくんを所有していたのよ。
  それだけで充分。
 
                      つづく
 
 

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