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悪霊誕生 3/3 (最終回)

 あの塊のところへ……。おれは念じた。夜空を埋める無数の星々、その星のひとつ、あの星へ、と念じればたちまちその星に降り立っているこのおれだった。だが、そのおれが……いまだに、漂っていた、夜空を。月の煌々と照る、うつくしい、清らかな光に満ちた、この夜空を。風にふかれて。ヤキがまわったか。ためしに、おれは目についたあの星を念じてみた。一瞬だった。行き、帰ってきた。ためしに、おれは、八畳敷きを念じてみた。あいかわらず、やつは大海原を漂っていた。あいかわらず、ミズクラゲをたらふく貪る夢に溺れながら……。もういちど、おれは念じてみた。あの、土気色の貧相な顔……。やっぱり、おれは、漂っている、夜空を。念じる前とまったくおなじこの夜空を。夜空の、ここを。百回は試してみた。いつも、おなじ、ここ。結論を言えば……あまりにも単純明快だった。あの土気色の顔をした塊は夜空のここ。つまり、この、おれ、ということになる……。 
 あれが、この、おれ、だと? あれが……あの貧相な土気色の顔をした塊が? オレの底なしの腹のあたりから溶岩のごとく哄笑がふきあげた。冗談も休み休みにしろ。いくら深い縁がありそうな予感がするとはいえ、あれイコールおれ、などと。もし、この公式が正しいなら、なぜ、いま、おれはここにいる? それとも、おれがふたりいるとでもいうのか? このおれのような存在が、ふたつ……。いや、しかし、それにしても、なぜ、このおれのような存在は、こうしてひとつにまとまっているのだろうか。今さらながら、不可思議といえば不可思議だった。なぜ、こんなふうにひとつの意識、ひとつの意思として、もやもやとかたまり、おれというカタチをとって漂っているのか? ほんとうに不可思議に思えてきた。疑念さえわいてくる。なぜ、この手のようななにかはこうしておれと繋がっているのか……。矛盾する意識や欲望がありながら、なぜ、おれはこうしてひとつにまとまっていて、おれのようなものを保っているのか……。これも、なにかの残滓にちがいなかった。なにかの余韻。時間がたてば、もっともっと時間がたてば、おれはそれぞれの意識、それぞれの欲望、それぞれの妄想のままに、その数のままにひろがっていき、この世界に偏在してしまうにちがいなかった。そう、それぞれの意識、欲望、妄想に親和性のあるあれらそのもののようになって。矛盾する意識、対立する欲望、毛羽立ちあう妄想……それらが、ごく自然に、あるがままに、存在する、そんなおれ……。どれかを、どちらかを選択する必要などまったくない。生の意識、生の欲望、生の妄想。あのセックスする女と男との感覚を同時に共有したのは、こんなおれの兆候なのかもしれなかった。そのためには、このおれという意識、言葉からも自由になるのだろう。言葉とは、結局、選択なのだから。おれが「おれ」という言葉でおれを指し示すとき、知らず知らずのうちに、「ぼく」「私」「我が輩」「拙者」「吾」「朕」「彼女」「彼」……などという意識を排除してしまい、おれは「おれ」でしかなくなってしまう。つまり、まだ、おれはなにかの残滓に縛られ、規定されているのだった。まったく、この「おれ」のような存在を呪縛しつづける余韻とは一体何なのか……。ただ、風のようなおれなのに。風とはただ大気の移動であって、風自身に実態はないというのに。
 そう、風から風に、風のまにまに……。とおくに、朝日が見えた。丸い水平線から、オレンジ色の輝きの予感がほのさしている……おれは念じた、そのとたん、おれは、夕陽を見ていた。丸い水平線に沈みゆく焼けただれたオレンジの光……さらに念じた、見事におれは太陽のコアにダイブしているのだった。退屈といえば退屈だった。だが、この退屈はわるくなかった。ここちよかった。また、おれは八畳敷きのうえにいた。静かな波のまにまに漂っていた。ばくばくとミズクラゲを貪っているおれ……。そういえば、これと似たようなことがあったような気がした。ミズクラゲかどうかはわからないが。ミズクラゲ以外のなにかを、貪っていた、おれ……。しかし、いまはもう、そんなことをする必要はなかった。なぜ、そんな記憶があるのか、不可解だった。記憶? なのだろうか……。ただ単に、八畳敷きとの親和性が強すぎるために、やつの妄想をおれの記憶のように思い込んでしまっているだけかも知れない。漂う波のなかにとけていくおれ……ちゃぷん、ちゃぷんと、おれの周りではさざ波が戯れ、おれはそのさざ波のなかにとけこんでいく……さざ波の妄想や欲望、思考、感覚……それらを、おれはどうしても共有することはできないらしかった。ただ、波のなかには、微細で無数の欲望が漂っていた。微細な欲望が満ち満ちていた。無数のビサイな欲望には、いろいろなタイプがあり、矛盾した欲望もあれば、似かよった欲望や、まったくおなじものもあり、それらが入り乱れ、大きなうねりとなっていた。それを波濤の欲望だというのなら、ひとつの見解にはちがいなかった。大気のなかにも、太陽のコアにも、宇宙空間にも、こんな微細な欲望が漂っていた。どれもこれも、ある原初的な欲望のように感じた。光を求める欲望、闇を求める欲望、熱を求める欲望、ある種の元素をもとめる欲望、真空を求める欲望……だが、それが何を意味するのか、おれにはよくわからなかった。なぜ、この微細なものたちは光を求めるのか。なんのために? なぜ、闇や元素や真空を求めるのか……。波のなかにあふれかえる微細で無数の欲望……そんな欲望に身をまかせ、耳を澄ましているのも、それはそれで悪くなかった。もちろん、「身をまかせる」「耳を澄ます」というのは、おれにとってはただの比喩にすぎないが。波のまにまに漂っているおれの範囲内に満ち満ちている、そんな微細な無数の欲望を感じているのも……そう、おれの内側にそんな微細な無数の欲望を満たしておくのも、悪くはなかった。あるひとつの欲望があるひとつの欲望と融和し……あるいは、あるひとつの欲望がふたつにわかれ……つねに、それら微細な欲望は無数の、しかし、タイプ化できる方向性をもって戯れていた。……また、おれは……うとうとと……おれは慌てて波から飛びあがった。
 おれは……やっぱり突きたっていた……勃起していた……その見たこともないなにかから。見たこともない、なにか……おれは驚いた。その見たこともない何か、にではない。「見たこともない」と感じるおれに。「見たこともない」と発語したおれに。なぜ、それを、おれは「見たこともない」と形容したのか。「見たこともない」とは「見たことがある」と一対だった。つまり、おれにはなにかの記憶や、それを見た、見なかったと判断できる過去がある、ということになる。おれの過去、おれの記憶……。またしてもおれはおなじ問題に悩まされることになった。なにかの過去の残滓、記憶の残照にすぎないおれ。何の残滓であり、何の残照なのか。そもそもこうして考えている「おれのようなもの」が、その「言葉」がなにかの残滓にちがいなかった。おれとは余韻なのだ。なにかの。おれはまたしても俯瞰していた。それら「見たこともない」なにかの様子を。それはふたつにわかれつつあった。無限大のマークのように、ウロボロスの蛇のようにふたつに分かれようとしていた。が、おれがその一方から抜け出るや、別れるのをやめて、ふたたびひとつになった。それは、かがやき、無数の三角錐があり、球体でもあり、円筒でもあり、直線と曲線でもあり、数字のような模様に覆われていた。なぜおれは、波にゆらめく八畳敷きのうえで感じたやすらぎや大気にふかれるあの心地よさを、ここでは感じないのか。おれは漂い、さまよった。どうやらここはおれとの親和性のつよいあれらが存在するあの星ではないようだった。だが、その理由がよくわからなかった。八畳敷きには親和性があるのに、あの「見たこともない」ものには親和性がほとんどないのか。だが、あの「見たこともない」ものが波や大気のようではないのも明らかだった。統一された指向性、方向性があの「見たこともない」ものには感じとれるのだ。あえていえば、あの「見たこともない」ものはふたつに別れたがっていた。ふたつに分かれて何をする? おれはこの星を離れてあの星に戻った。八畳敷きのうえに。念じればすぐだった。それにしても、まったく、うとうとすることはおれにとって致命的ななにかにちがいなかった。うとうとすると、おれは、知らぬ間に、なにかのなかに入ってしまっている。おれと、ある種の親和性のあるなにかのなかに。そして、ただ思うことも、危険をはらんでいた。「無」であること。「無」を思うこと。このおれのような何かがいまの「おれ」を保つためには、何も思わず、何も念じず、ただ、風のままに、波のままに、「無」であるしかなかった。だが、「無」であることなど、可能だろうか。「無」を思うことと「無」であることは、おそらく、イコールではない。おれは「無」を思う……だが、「無」とは何だ? 「無」を思っている時点で、思っているのはこの「おれ」なのだから。「無」とは思わないこと、なのだ。何も思わないこと……。だが、この「おれのようなもの」にはできない相談だった。何も思わないことなど……。だから、「波」を思う。「大気」を思い、「風」を念じる……たとえば、ほら、風を念じるこのおれのようなものは……いまは、風のまにまにただよっている……こうすることで、おれのようなものは、今の状態を維持することができる……すると、おれのようなものは、いつしかほんとうの風になってしまって、うとうととしてくる……うとうとと……すると、おれのようなものは、風や波や大気といったものではないなにかのなかに……。風や波や大気よりもおれと親和性のつよいなにかのなかに、取り込まれてしまっている。取り込まれては、おれはまた、抜け出す、なんとか。このおれのようなものは。抜け出さなければどうなるのだろう? だが、考えただけでぞっとする。せっかく、このおれのようなものは風のまにまにただよっていられるのだ。その自由を、……「自由」? 仮にそれを「自由」と呼ぶなら、その「自由」を失ってしまう予感がするのだった。「自由」? 考えたこともなかった、いままで、このおれのようなものの自由。そう、自由、なのだ。風のまにまに、波にただよい、あの雪山の頂上で日の出と夕陽をながめ、あの星やあの星雲や太陽のコアにダイブする……あるいは、おれのようなものとの親和性のつよいあれらのものと欲望や思考を共有し……。このおれのようなものは、なんと自由気ままなことか。おれは、腹の底から湧きあがってくる喜びに浸った。もっとも、「腹」とはおれにとってはただの比喩にすぎないが。ナゾの比喩。「腹」とは何か。ただの残滓にすぎない、言葉。やがて忘れられ、時の経過のなかに埋もれゆく遺跡……。
 それにしても、このおれのようなものは、この「自由」にもっと早く気づくべきだった。しかも、おれのようなものと親和性のつよいものとの思考や欲望の共有……このおれのようなものには、こんなことができるのだった。すこしは退屈が紛れるかも知れない。自由ゆえの退屈。おれは試しに念じてみた、あのかたまり。肉の器官と器官でつながっていたあの塊。あのかたまりのなかにまた移動できるかどうか。八畳敷きにはもう飽き飽きしていた。いつもおなじ、やつを満たしているのはただ、ミズクラゲを貪る妄想。それにたいして、あのかたまりは、すこし違う手応えがあった。八畳敷きよりはもう少し複雑な感じがした。ほんのすこしだけだが。八畳敷きよりはもっとさまざまな妄想がつまっている手応えがあった。やつらの場合、おなじ欲望とはいっても、いろとりどりなのだと、何かがおれのようなものに教えていた。あの塊……肉の器官と器官を接合していた、あのふたつの塊……たしか、あれは、……なんと言ったか……お、ん、な……と、オ、と、こ……そう、女と男、……ホモ・サピエンス……ヒと、人といった、ひと。ヒト……。おれは念じた、ヒトとヒト、男と女、肉の器官を接合する女と男……ヒトとヒト……。
 「あっ、あっあはぁっ、いいの、いい、いいのぉぉ」
 おれは、おれのようなものは思わず見入っていた。なぜ、そこに、その場所に、おれのようなものの注意が凝集してしまったのか、それはわからない。だが、おれは、おれのようなものはその場所から気をそらすことができなかった。動いていた。ぱくぱくと……。閉じたり、ひらいたり……。そこは、まさに、言葉の出口なのだった。閉じていたものが開くたびに、気流の流れとともに、言葉が、流れだしていた。「あっ、あっ、あんっんっっ、そこっ、そこよっ、ともくんっ、そこっ、そこっ」。お、んながはきだすことばが、おれのようなもののなかに入りこんでくる……おれはその言葉とともに振動し……あっ あっぁっ いいっ もっと もっと ともくんっ……知らず知らずのうちに、おれは念じているのだった、その言葉を。おんなの、その開閉する穴から吐き出される言葉を……おれは念じていた……いや……おれに、このおれ自身にその言葉がのりうつっていた……ともくん いやらしいでしょ あたしのおまんこ こんなにぐちょぐちょ ああっ ああんっ 突いて 突いて、もっと、もっともっと……下腹部の違和感……いや、快感? 脳天にまで響く深く激しい振動……からだじゅうの細胞という細胞が花開き、はぢけとび、沸騰し……おれは……ともくんとやらに、突きあげられていた……からだの奥深く、底の底まで……ともくんとやらの顔がおれの顔に覆い被さるようにせまり、おれの唇にねっとりと……ともくんとやらの唇が貼りつくや、おれの唇をこじ開けてともくんとやらの舌がおれのなかにあらあらしく割入ってきた。おれは抵抗した、両手首はトモくんとやらに抑えられ、腰はトモくんとやらの性器に釘付けにされて、かきまぜられ、身動きがとれなかった。もっとも、トモくんとやらに手首や腰を拘束されていなくても、おれの体はとろけるようになって身動きはできなかったろうが。つまり、どうやら、このおれは、この女に憑依しているのだった。おんなの目でトモくんとやらを見、おんなの唇でトモくんとやらの舌を、おんなの手首でトモくんとやらの握力を感じ、おんなの内腿でトモくんとやらの腰をしめつけ、女の膣でトモくんとやらの男根を受け入れ、女のからだでトモくんとやらと交接している。……なにか、なじみのある、懐かしい感覚がおれのようなものだったおれに蘇ってくる。おれの目の前で、トモくんとやらの口が、パクパクと動いている、「ああっ、かすみ、いい、いいよ、かすみのおまんこ、さいこう……」いいよ、かすみ……かすみ……おまんこ……おれの目の前に女がいた。ショートヘアーの色白の女。女の両手首を握り、締めあげるようにして、おれは、女の膣につつみこまれているペニスを、奥深くまで突きいれて、かきまぜている。感じている、おんなにしめつけられる亀頭、陰茎……ああ、腰がもうとまらない……さっきよりももっと、ふかくなつかしい感覚が遠くから徐々にちかづいてきてついにはおれの体中にあふれかえり、おれの腰はさらにはげしく、かすみとやらを突きあげる。「ああんっ、トモくん、だいすき」……だいすき トモくんっ……脳天に響く振動がさらにはげしくおれを襲う。おとこがおれのからだを抱きしめ、密着したひげの感触がざらざらとおれの肌を逆なでし、かえっておれはぞくぞくと全身に電気のような快感が突き抜けていく。あああ、かすみっ ぼくもすきだよ かすみっ ……おんなの乳房がおれの胸に吸いついてくる。おれはさらに両腕に力をこめて、華奢な女のからだを、かすみとやらのからだを抱きしめる。とろけるような女の膣がおれのペニスをむさぼっている。ともくんっ ともくんっ 無精ひげがさらにおれの肌をこすり、おれはぞくぞく鳥肌だってからだをよじる。ああ かすみ このままいっしょに もう どうなってもいい おんなの乳首がこりこりとおれの乳首を刺激して、おれはたまらなくなり腰をもっともっと卑猥にうごめかし、いっ あっ それっ すごくいいっ トモくんっ おれは…… かすみっ こうっ ここっ ここっ ……おれは…… ああんっ ともくんっ さいこうっ おれ かすみ ぼくもだよ ここ ここっ かすみのここ さいこう おれの ともくんっ お かすみっ れ あぁんっ い いくっ ともくん くる いく お かすみっ いっしょにぃぃっ re トモ ともゆきっ O かすみっ かすみっ r いくっ いくっ あああああ e ……
 おれのようなものはなんとか……り……離脱、し、た。射精の瞬間か、イってしまった瞬間か、目の前がまっしろになり、真っ暗になった、その瞬間、あれらぱくぱくと動く言葉の出口が見えなくなった刹那……うとうと……してしまうとコントロールがきかないように、どうやら、あの出口に気が凝集してしまうと、どうにもならないのだった。言葉……やつら……なんと言ったか……そう、ヒト、ヒトの世界は言葉にあふれていた。そう……、おんなか、ともくんとやらか、とにかくやつらに浸透していたとき、やつらのあたまのなかに見つけたこんな言葉、「口は禍のもと」。たしかに、そのとおりだった。言葉は、わざわい……のもと……。満ちてくる……こうしていると……振動が……やつらの、言葉の……ただよっていると……やつらは……あふれていた。局所的に、この星に。太陽が沈み、闇が覆う……その闇のなかに燦めき、つながる無数の光。その光が濃く、密度の高いところほど、やつらも……あふれていた。夜光虫が群らがるように。そんな光のなかを……ただよっていると……満ちてくる……やつらの……言葉……あの出口から、吐き出される……。気を集中しさえしなければ、よかった……どれか特定の出口に気が固執しなければ……そう、やつらの感覚でいうところの「見る」ことさえしなければ……言葉はおれに憑依することはなかった。だが、逆に……ある言葉に気を固執し、おれのようなものを共振させると、おれは、やつらのなかに入りこむことができるのだった。やつらのなかに入りこむこと……それは、奇妙な爽快感をおれに与えた。おれに、さっきまではおれのようなものだったこのおれに、しっかりとした輪郭を与えた。もちろん、その輪郭は宿主の感覚の境界線というわけだが。今もこうして、思考しているのは、宿主の輪郭のおかげともいえた。茫洋、という状態にちがいなかった。あのおれのようなもの、とは。輪郭もなく、ただ、無数の言葉が、無秩序にただよっている。なんとなく、範囲のようなものはあるが、それは、むらがっている言葉の一番外にあるものによって自然に定まっているにすぎず、その言葉がどこかへはなれていくと、おれのようなものの境界もとおくへひろがり、やがて、おれのようなものの引力がとぎれてしまうと、その言葉は永遠にどこかへいってしまう。そうやって、おれのようなものは、時間とともにひろがり、失い、うすまっていく……おれのようなものがおれであるためには、宿主に入りこむ必要があった。入りこみ、失い、うすまったこのおれを、修復する必要があるのだった。おれは宿主が言葉を使うたび、おれ自身を共振させて、宿主の言葉を取りこむ。いや、ただ、大気の振動として放たれた言葉だけではない。宿主の思考、意識、欲望、それらをかたちづくる言葉どもと共鳴し、共鳴することでとりこんでいく。だが、ながく特定の宿主に入っていることは、汚染を意味した。あまりにも偏狭なひとつの言葉の秩序をおれのなかに固定してしまうことになる。居心地の良さに、ひとつの宿主に長居してしまうと、癒着がひどくなって、おれがその言葉の秩序にとりこまれてしまうのだ。おれか、その宿主の言葉の秩序なのか、区別がつかなくなってしまうのだった。そうなると……幸い、宿主が車にはねられたおかげで、おれはまたおれのようなものに戻ることができたが。そう、車にはねられ、宿主の言葉の秩序は爆発し、分解し、おれから分離し、おれはおれのようなものとして宿主から抜け出すことができたのだった……
 茫洋と……言葉のひとつの群がりとして大気をただよう、このおれのようなもの……これを。やつらは、意識……い、シ、ki、イシキ、意識と呼ぶ。いや、おそらく……やつらが意識と呼ぶものは、このおれのようなもののことなのだ……茫洋と……ただよっている……宿主を求めるでもなく、……求めないでもなく……どこからともなく……ある言葉が……とらえる、おれのようなものを……「あ、うぐぐぐ……」。つよい、情動や感情、欲動、快感……そんなものに高まる言葉であるほど、おれのようなものがつかまる確率は高かった……あ、うぐぐぐ……おれのようなものが……おれが……共鳴する……茫洋とただよっていたおれのようなものが、あうぐぐぐと共鳴して、たちまち、おれは首のあたりにつよい圧迫感を感じた。ぎりぎりとと締めあげてくる。もうろうとしていく視界に、人影があった。おれは腕を伸ばしまさぐり、触ったものを握りしめると、そいつの頭にたたきつけた。一度、二度、三度。血しぶきが噴きあげた。おれは……美しいと思った。いや……宿主のとてつもない怯えの感情がおれを押しつぶしそうになった。腹の底から、笑いがこみあげてきた。宿主は、腹を押さえて笑った。いや、おれか。笑っているのは、このおれなのか。宿主の怯えの感情をおれの哄笑が呑みこんだ。血飛沫はおさまり、おれの足下にうつ伏せに倒れている人の頭から生温かい血が、おれの足を洗っていた。おれはそついを足先で蹴り飛ばした。蹴り飛ばす瞬間、宿主の怯えがおれの足をびくりとさせた。おれはふたたびおれを取りもどした喜びに笑いが止まらなかった。茫洋としていたおれのようなものの境界が、いまは、こんなにもはっきりと、くっきりとしている。こうして指先で触れると、おれの指とぬるぬるとした生温かい血液の感触がはっきりと、ここからこっちがおれであっちがおれではないもの、と区分できる。宿主の意識と無意識を土台にしてしっかりとおれの言葉が戻ってきている。ただ、この宿主はとてつもないおびえと恐怖心に支配され、その重みに今にも背骨が折れくずれてしまいそうだった。そのおびえと恐怖心があまりにもおれをいきぐるしくし、おれを押しつぶしてしまいそうだった。長居は無用だ。これでも、しばらくは、おれのようなものはそれなりの輪郭を保っていられるだろう。おれは、宿主の言葉の振動におれを同調させた。「もしもし……け、けいさつ……ですか。じ、つは、ひ、ひとを……ころしてしまいました……」。おれは宿主を離れ……おれのようなものは……
 血まみれの……ひとびとが散乱していた。おれは頭をあげて、もっとよく周りを見ようとした。そんなおれ自身が散乱しているひとびとのひとつなのだった。さすような、するどい、強烈な言葉におれのようなものは一瞬にしてとられえられ、気がつくと、このざまだ。どうやら、宿主のからだも五体満足ではなさそうだ。だが、それを確かめることもできない。「死にたくない」と宿主のただそれだけの思いが、おれを蝕んでいく。「死にたくない?」。そう、いつも感じていた、こいつらに宿るたびに。こいつらの意識、無意識には、つねにこの情動が渦巻いている。ふだんはそれがふかいところに埋もれているが、あるとき、こんなふうに止めどなく噴き出してきて、宿主のすべてを覆ってしまう。「死ぬ」とはなんなのか。宿主にとって、それは恐怖であったり、安らぎであったりした。「死にたくない」。この宿主の強烈な思いに、おれがどこか感傷的な懐かしさを覚えるのはなぜだろう? いや、こんな宿主ばかりに引き寄せられてしまうおれに染みついた汚れだろうか。宿りを繰りかえしているうちに、おれは徐々に宿主どもに共通するなにかに汚染されてきているのかも知れなかった。この無垢なおれが。そうなのだ、宿主たちのほとんどは、無垢とは純白に象徴されるものだと観じていた。例外はほとんどなかった。だが、おれはその逆だ。無垢とは、暗黒なのだ。やつらの言葉で言うところの、「漆黒」こそ無垢なのだ。すべてを呑みこみ、それでいて変わることのない「黒」こそ、無垢なのだ。だから、おれは、宿主に汚染されるたびに、汚染されるほど、無垢になっていく。恐れていた、この宿主は。「死」を。「死とは暗黒」だと。今、眠ってしまうと永遠に夜明けが訪れないのではないか、そんな恐れをたびたび抱いて眠れなかったことを思い出し、納得しようとしていた。そう、いつだってその恐れはただの杞憂で必ず夜明けは訪れた、今回だって。おれは、まさか。と思った。いままでとは、今回は違う、と。ほんとうの「死」が迫っている、と。突如、波うった。怒濤となって、宿主の情動がおれを呑みこんだ。恐怖に呑みこまれ、宿主はうめいた。おれはうめき声とともにこいつを離れた。こいつの出口からうめきごえとともに大気にとけだしていった……
 茫洋と……大気にとけだしてただようともなくただよっているあいだは、考えることもままならなかった。強い感情や欲望、情動、思いのこもった言葉にとりつかれ、それを発した宿主に取りこまれてしまうのは、仕方ないことと諦めるしか、おれはなかった。宿主のなかでおれに戻れば、しばらくはおれ自身の思考、意識を持つことができた。欲望や感情、感覚などは、はたして純粋におれのものといえるのかどうか。宿主という存在を土台にして、おれはおれであることができるのだった。だが、おそらく、おれは宿主にとっては、ある言葉にすぎなかった。ある一群の言葉。それでも、おれは、宿主の意識を間借りして、どうしたらできるかぎり、思いもよらない宿主に取りこまれるのを防ぐことができるか、考えないことはなかった。強い感情や情動、思いがこもった言葉といっても、輪郭もうしなって茫洋と大気をただよっているこのおれのようなもののなかでは、常にそんな言葉がうごめいているにちがいなかったが、そのなかでも、なぜこの宿主なのか、なぜあいつではなくこの宿主なのか、それはよくわからなかった。おれのようなものは宿主を選ぶことができなかった。ただ、おれはその宿主を自由に捨て去ることができた。そして、もしかすると、すこしばかり、宿主の意識や欲望を動かすことができるのかも知れないと、思うことがあった。おれのようなものであるあいだはただ茫洋としているだけだが、宿主をえておれを取りもどせば、おれは過去の宿主どものことを思い出すこともできた。宿主にしてみれば、奇妙な感覚なのかも知れない。おれにとり憑かれて。伝わってくることがしばしばあった。一瞬、何が起こったのかと呆然とする。立ち止まって物事を見極めようとする。しかし、そもそも茫洋としたおれのようなものなのだ、ふわりとなにかが覆い被さってきた、そんな感覚に襲われるにすぎなかった。一群の言葉といってもほとんど境界もなく薄まり、漂っているおれのようなもの。そんなものにとりつかれたとしても、感づく宿主はほとんどいなかった。そもそも強い感情や情動、思いにひきずられて言葉をはきだしている宿主なのだ。それらの感情や情動や思いに支配されている宿主なのだ。その感情や情動や思いによって自身のなかに微震が起きたと、その程度にしか認識しないものがほとんどだった。そして、やはり、宿主のなかでもおれは茫洋と宿主の意識にとけこんでいる。おれというれっきとした一塊があるのではなかった。宿主を作り上げている言葉、その言葉のなかでおれの意識と交わる言葉がいわば印つきとなる。おれと宿主が共有する言葉。一方、宿主しか持っていない言葉やおれしか持っていない言葉は、共有する言葉をとおして時間とともに浸透しあった。長居すればするほどおれと宿主の意識はとけあい、やがてどちらとも区別がつかなくなるにちがいない。いや、時として、おれの思考に影響をうけ、思いも寄らぬことを口走ってしまう宿主もいないではなかった。しかし、それも自分が口にしたこととして宿主は受け入れるしかなかった。なぜなら、紛れもなく、宿主自身の肉体がその言葉を発したのだから。おれのような茫洋とした境界もない曖昧模糊とした存在などではない、肉体という、個別のはっきりとした塊、境界をもつ宿主どもは。なぜ、そんなことを口走ってしまったのか。なぜなのか。取り返しがつかない思いに蝕まれるヤツもすくなくはなかった。しかし、やがて、人間とはそういうものだと、やつらは諦めるしかなかった。無意識のどこかにそんな自分がいたのだ、と。そう、おれは、おそらく、宿主のいうその無意識とやらに間借りしているにちがいなかった。宿主の無意識のなかにとけこみ、おれはおれの思考をつづけることで、おれでありつづける。そして、たまたま、その思考の言葉と宿主の意識にのぼった言葉が一致すると、思わぬ事を口走ってしまうようだった、こいつら宿主ときたら。だが、おれの思考が宿主の意識や思考、感情や情動や欲望からまったく影響をうけていないかというと、そうではかった。おれは、ややもすると、ふっとなにか別のことを考え、意識していることがあった。いまのいままで、おれが考えていたこととは別の言葉や思考がふっとおれを捉えることがあった。どうやら、おれと宿主は干渉しあっていた。いつ、どういうタイミングで、干渉が起こるのか、それはよくわからない。しかし、ある一瞬、おれの思考が宿主の意識を突き破り言葉になって吐き出され、宿主の意識がおれの思考にくいこみおれが宿主の紛れもない一部だと感じさせることがあった。紛れもない……一部……宿主の、その指や性器や肝臓のような……。無論、そんな瞬間を経験し次第、おれは宿主を替えなければならなかったが。それ以上同化してしまうわけにはいかなかった。おれは、おれを取りもどすために宿主にとりつく、それが、宿主に同化されてしまうなど、本末転倒、やつらの言うところの「ミイラ取りがミイラになる」だ。
 
 アナタハシゴノセカイヲシンジマスカ? ソウ、死後ノセカイデス。ヒトハシンダラドウナルノデショウカ? 死ヌノデス、カナラズ、ダレヲカモ……おれは……ああ、さっきまでただよっていた……今度は、こんなやつか。こんなやつの言葉がおれに共振し、おれにひきこんだ……男や女がこちらを見ている、おれを見ている、こいつを見ている、こいつの言葉にとりつかれている。おれの一部が、おれの意識とこいつの意識とのまじわった、あれら印つきの言葉にのっておれの一部がこいつの言葉とともに放たれ、目の前にならんでいる男や女の耳に忍び込んでいく。宿主と交わっているおれの意識のいちぶが、宿主の言葉にのって、あの男、あの女、あの同性愛者、あの帰化人、あの年寄り、あの学生、あの……、あの……やつらにのりうつっていく。途切れていく、奴らの耳に吸い込まれたおれの意識が、ぷつり、ぷつり、と音を立てて……途切れるたびに、おれはまた宿主から言葉を、おれにとってはおれそのものである言葉を補給する。宿主の言葉をとりこみ、おれはまたおれの範囲を保つことができる。ああ、はやくこいつから出て行かないと。おれがどんどん目減りしてしまう。とりこんでもとりこんでも、つぎつぎにおれは目減りしていってしまう。はやく、捨て去らなければ、こいつ、この奇妙な宿主を。ああ、ところが、どうしたことか、おれはまた引き戻されている、こいつのなかに。共振がおさまらない。こいつの言葉、意識との共振、共鳴、おれのなかで、こいつの言葉が励起されて色めき立っている。色めき立ち、ふるえ、とおくへ……やつらの意識のなかへと吸い込まれていく……すいこまれて、ついにおれとつながりが切れてしまう……こいつの意識を補充すればするほど、おれの意識はこいつの言葉とともに吐き出されてやつらのなかへと吸い込まれて消えてしまう……死後ノセカイ、ソレハ、アナタガタひとりひとりノナカニアルノデス、ヨロシイデスカ。ケッシテ、アナタガタノ外ニアルノデハナイノデス。カガクニヨッテ、キャッカンテキニ、ソノ存在ヲショウメイデキルワケデハナイノデス。ソンナ科学ハミナ、エセカガクデス。カガクガショウメイデキルノハ存在スルモノダケナノデス。死後ノセカイハドコニモソンザイシマセン。タダ、アナタガタノナカニシカ。オワカリデスカ。オモッタヨウニ、死後ノセカイハソンザイスルノデス。アナタガタガオモイエガクママニ。ツマリ、地獄ガアルトオモウヒトハ地獄オチルノデス。ヨイオコナイヲシヨウガアクニソマロウガカンケイアリマセン、ヒトダスケヲシヨウガ、ヒトヲコロソウガ関係アリマセン。地獄ガアルトオモウヒトニハ、死ンダアト地獄ガクルノデス。思ったように、死後の世界は存在する……こいつらの気にしている「死後の世界」なるものはよほどご都合主義にできているらしい……なんなのか、おれにはよくわからなかった。そもそもこついらが非常な関心を抱いている「死」とはなんなのか。だが困ったことに、「死」という響きにおれの意識は異様に共振してしまうのだった。膨れあがり、伸びてふるえ、共鳴し……散らばっていく……奴らの意識のなかに……かすかに、なにかがおれの意識によみがえってきた……むさぼる……ミズクラゲ……ああ、ミズクラゲを貪る、おれ……sHI……という響きに、おれの目の前にミズクラゲが充満してあふれかえり、かたっぱしから、おれのとがった唇と呼ばれる部分が、そう、この唇は入口だったが、ミズクラゲを取りこんでいる……無性にミズクラゲを貪りながらおれの一部は、性器と呼ばれる部分は交接し、やはり交接先のそれを貪っている……「けれども、先生、一般に多くの宗教は、地獄だけではなく、その反対の世界として極楽とか天国とかを想定しています。ならば、地獄に堕ちるとは限らないんじゃないでしょうか」。嗤っていた、こいつは。宿主は……せせら笑っていた、おれも。ソレデハオキキシマスガ、アナタハ極楽ニイテモ、地獄ノコトヲマッタクイシキシマセンカ。イシキシナイデイラレマスカ? ソウデスネ、タトエバ、トテモタノシイコトガアッタトシマス。アナタハソノ楽シイコトノタメニ、イヤナコトヤ不安ヲワスレテシマイマス。ズット? デスカ? ズット、ワスレタママデイラレマスカ? アルイハ、タノシイコトガズットツヅイタトシテ、あなたは、死ノ不安ヤむなしさガナクナッタトイエマスカ? スッカリ死ノ不安ヤ恐怖ヤむなしさカラカイホウサレタトイエマスカ? 解放サレタノデスカ? せせら笑っていた……こいつも、おれも。地獄トハソウイウモノナノデス。「死」とは、「不安」や「恐怖」や「むなしさ」を伴うものらしい……こいつの意識のなかでは。こいつの言葉の秩序のなかでは。この宿主にとっては。すると、おれはまた、「不安」や「恐怖」、「むなさし」といったものを検索しなければならない、こいつの意識の流れを追って……こいつの意識に張り巡らされた言葉の秩序をたどって……おれが……どんどんこいつの意識のなかに、言葉の秩序のなかにとけこんで……とりこまれて……同化されていく……やばい……このままいくと……おれはこいつの「死」という言葉にのって脱出を試みた。おれをこいつに引き込んだ言葉であり、こいつをおれが捨て去ることを困難にしていたこの響きである、ShI……逆に、この「死」のつよい親和性を逆手にとって。この親和性を反発力にかえて。こいつの口から、あいつの意識に……解放されたわけではありません、先生……やっぱり、いつも無意識のどこかでは……きっと……気になっていると思います。生きているかぎり、死から解放されることなんて……不可能です……こいつを中継点にしておれを極限まで増幅したおれは、一気にとびだした、茫洋とした、おれのようなものへと、飛翔した……
 
 ぅっ、んっ……さっくりと、おれの左手首の皮膚が口を開く……切っては塞がり、切っては塞がりした何本もの傷跡……さらにその傷跡のうえに刃先をあて、すっとひく……また、さっくりとおれの皮膚が口を開く……おれはイライラした。もっと深々と……おれはカッターナイフをしゃにむに左手首に押し当て、力一杯ひききった。一瞬、血が噴き出した。赤い血はおれを昂揚させる、とくに、他人の血は。宿主の血は。宿主の痛みはおれの痛み。おれの昂揚は、宿主の昂揚。おれは切り裂いた、ふかぶかと、くり返し。遊びは終わりだ。なぜこんなことをしているのか、こいつはよくわかっていないようだった。意識はもうろうとして……こんなやつは、おれの思うようになるのだった。もうろうとした意識のなかで、こついの左手は、こいつの右手の持ったカッターナイフで幾度も幾度も切り裂かれた。念入りに。どんな名医だって修復不可能、匙を投げるほどに。こいつに……そんなつもりはなかったかも知れない。いつものリストカット。くりかえし。こいつの習慣であり、日常であるリストカットでまた時間をつぶそうと……。気がつくと、おれはカッターナイフを握りしめ、おれの左手首にあてがっているのだった、こいつの一切りめのうめき声が聞こえたと思ったら……こいつにはそんなつもりはなかった。こんなにふかぶかと、なんども、取り返しがつかないほど切ってしまおうなどと。噴き出してくる血に、こいつがおろおろしはじめるのが手に取るようにわかった。おどろき、あせり、スマホを手にとった。おれは、どうせ人は死ぬんだ、と思いを凝らした。遅いか早いか、それだけのこと。画面に触れようとする女の指先が、ぴくりととまった。そう、どうせ、あたしは死ぬ。そう、遅いか早いか、そのちがいがあるだけ。生きていたってしょうがないもん、このまま死ぬのも悪くないかも……スマホをもった女の手から力が抜け、おれの血がスマホをなまあたたかく濡らしていった。おれの左手からスマホが滑り落ち、女の心が落ち着き静まっていく……おれはまた思いを凝らした、とはいっても、今死ぬ必要もない。まだまだ、なにかいいこともあるかも知れない。生きていれば……。女はぎくりとして、あわててスマホをとりあげると、一一九番しようとする。なぜ、わたしはこんなこと……ああ、はやく、いや、まだ死にたくない。おれはまた思いを凝らす、どうせ死ぬんだから……いつかは死ぬんだから。つらい思いして生きてることもない。女はタッチしたスマホの画面から指を離し、また、だらりと腕をたれる。床にへたり込み、うつ伏せになって、泣きはじめる。おれの右手はまたカッターナイフを手にして、手首といわず、ざくざくと女の左腕を切り刻む……今、死ぬことなんてないんだよ、とおれは意識を凝らす。どうせ死ぬんだから、なにもあわてて死ぬことなんかない。今、あわてて死ぬことなんかない、おれの右手は女の左手をざくざく、ざくざくと切り刻みつづけた。女の右手はカッターナイフを捨て、血まみれのスマホを操作しようとする。死にたくない、こんなことで、こんなふうに、死にたくない、とおれは女の心のなかで呟く。とはいえ、生きていても仕方ない、どうせ死ぬんだから。早いほうがいい、さっさと、死んだ方が楽になれる……女は血まみれのスマホを壁に投げつけ、泣きわめく。どうせ死ぬんだから、いま、死ぬ必要なんてない。今死ななくてもいつかは死ぬんだから。遅かれ早かれ、死ぬんだから。とはいえ、どうせ死ぬんだから、これ以上死を先延ばしする必要もない、わざわざ死を先延ばしする必要もない、どうせ死ぬんだから……拾いあげたカッターナイフで体中切りつけながら、女は血のなかで泣きわめきつづけた。ぎゃあぁぁぁああああっ……おれは女のわめき声にのって、女から離れ去った。夜空のかなたへ……いや、あの涼やかな満月へ。これほど楽しく、気分の昂揚することはほかにはなかった。この昂揚感のつづくかぎり、おれは誰かの声にとりこまれることはなかった。たしかに、おれはまたしばらくすれば茫洋となっておれのようなものとしてただよっているにすぎなくなるが……それまでのほんの刹那、この昂揚感に浸るとしよう……
 
                          

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