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梨華ちゃんの37歳のバースデーイベント

 梨華ちゃんの37歳のバースデーイベントに参加するに当たって、主治医の美人女医さんの許可を得ることはできなかった。わけあって美人女医さんはお休み中だったからである。代診の男性医師に「自分、梨華ちゃんのイベントに参加しても大丈夫ですか?」とたずねる勇気はなかった。「僕みたいな精神異常者が、医師の許可なく梨華ちゃんのバースデーイベントに参加しても大丈夫なのだろうか?」という不安を抱えながら、バースデーイベント当日を迎えた。

 1月23日の日曜日の朝、体重を計ってみたところ、過去最高に近い体重であった。梨華ちゃんのバースデーイベントまでには痩せようと考えていたのだが、ダイエットは失敗に終わってしまった。ウォーキングは毎日30分していたのだけれど、どうやら酒を飲み過ぎたようである。お腹がとてもふっくらしている。僕は「76」という数字を見つめながら、大きくため息をついた。

 午後3時ごろに自宅を出る。万が一電車が遅れたらシャレにならないため、かなり余裕を持った出発である。今さら頑張ったところで手遅れなのだが、日課であることは変わらないので、大宮駅まで30分くらい歩く。エスカレーターは使わずに階段をのぼり、下りる。20分くらいベンチに座って待ち、埼京線の快速、新木場行きに乗る。座席はぽつぽつ空いているが、ソーシャル・ディスタンスを確保するために立つことにする。

 窓外の風景を眺めながら電車に揺られているとき、僕の頭の中ではマツケンサンバのサビの部分が繰り返し流れていた。その曲が途切れた時間が数分だけあり、「ソーシャル・おちんちんタンス」という言葉が唐突に頭に浮かんできた。僕はその単語をツイッターに投稿したい衝動にかられたけれど、今はそんなツイートをしている場合ではないと思い、投稿はしなかった。自分の中だけでその「ソーシャル・おちんちんタンス」の語感を楽しんだ。そしてまたマツケンサンバが僕の頭の中を支配した。オ~レ~、オ~レ~、タカタカタンッ! マツケンサンバ~♪

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 渋谷駅に着いた。トイレに行っておしっこを絞り出した。昨日お酒を飲んだとは言え、これだけ出せば公演中に出ることはないだろうと確信した。しかしお尻のあたりに大便の気配がわずかにあり、それは気になった。駅から外に出ると、そこは一言で言えばカオスだった。混沌である。渋谷ヤバすぎると思った。YouTuberもいれば、チラシを持った地下アイドルもいる。何か怪しげな物を売っている若い男たちもいる。れいわ新選組を推している元気なおばさんがいる。ポスターの山本太郎が笑顔で僕を見つめている。

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 A4の用紙に印刷して持ってきた地図をカバンから取り出す。バースデーイベント会場である「渋谷DAIA」までの行き方を確認する。僕は偶然にも、先日渋谷DAIAに行っていた。アイドールBRAVEのファーストワンマンライブがそこでもよおされたのだ。アイドールBRAVEとは、大宮アイドールの妹分ユニットである。いわゆる地下アイドルだ。ライブアイドルとも言う。まさかアイドールBRAVEと同じ場所で梨華ちゃんがイベントをやるとは思っていなかったから、それを知ったときはひどく驚いた。その旨をメンバーの若菜さきちゃんに教えると、さきちゃんも「おそれ多い!」と驚いていた。

 渋谷DAIAに向かって歩き、渋谷109のあたりに差しかかると、お尻の大便の気配がしだいに強まってきた。これはヤバいかもしれない。梨華ちゃんのイベントの最中にしたくなったらシャレにならないぞ。そう思った僕は、道の左側にある巨大な電気屋に入り、トイレに向かった。その電気屋は6階くらいあるのだけれど、どの階のトイレも個室に人が入っている。僕はあきらめて電気屋の外に出る。別の、トイレがいてそうなお店を探そう。僕は渋谷DAIAの向かいにある東急デパートにトイレの個室を求めることにした。店内は比較的すいていたが、嫌がらせのように個室にはしっかり人が入っていた。みんなどんだけウンコしたいんだよ!と心の中で毒づいて東急デパートを出た。

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 17時10分。もう大便をひねり出している余裕はない。分散入場のため、僕は17時20分から30分までの間に入場しなければならなかったのだ。東急デパートの近くにあるベンチに座り、大便の機嫌をうかがいながら、17時20分になるのを待つ。手持ちぶさただったので、noteに載せようと思ってベンチから上掲の写真を撮影した。植え込みにイルミネーションが施されており、「綺麗だなあ」と思う。下の写真は、アイドールBRAVEのワンマンライブを観に行ったときの写真である。

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 スマホの時計表示が17時20分になったのを確認した僕はおもむろに立ち上がり、ゆっくりと渋谷DAIAの入口に向かう。会場は地下1階にある。フェイスシールドを装着した係員に促され、うす暗い階段を下りていく。会場の入口前に受付が設置してある。ヲタクが7人ほど並んでおり、その最後尾に立つ。受付に近づくと、検温係の人が白い拳銃のようなもので僕の額から体温をはかる。平熱だったようでひとまず安心する。一歩進んで、受付の係員に3点セットを提示する。エムラインクラブの会員期限証、マイナンバーカード、当選メール。「マスクを下げてください」と言われ、僕の最近シミの目立つ素顔を見せる。「地下アイドルのライブではここまで厳重に確認しない。さすがはレジェンド級のアイドル、石川梨華ちゃんだな」と思う。次の係員にドリンク代600円を支払う。お茶など数種類ある中から僕はミネラルウォーターを選択した。

 やっとのことで会場の中に入り、手指をアルコール液で消毒する。左を向くと、ステージと客席が見えた。奥の大きなモニターに「石川梨華バースデーイベント2022~久しぶりっ~」という文字が表示されている。最初に思ったのは「客席が少ないなあ!」ということだった。ソーシャル・ディスタンスを確保するために座席の間の距離が十分に確保されている。アイドールBRAVEのワンマンのときは、ほとんどディスタンスを取ることができなかったのを思い出した。僕は自分の座席である「3列目3番」の席に向かい、おもむろに着席した。

 目の前を見ると、とても近くにステージがある。しかもほぼ真ん中である。あまりにも良席なので、「僕みたいなろくでもないガチ恋ヲタクがこんな良席でいいのだろうか。落選している人も多数いるというのに」と申し訳なく思った。会場にはモーニング娘。の懐かしい曲たちが流れている。それらを聴いていると、走馬灯のように梨華ちゃんとの思い出が頭のなかを駆けめぐった。楽しいこと、悲しいこと、切ないことなど、たくさんの思い出があった。楽しいことよりも、悲しいことや切ないことの方がずっと多かった。僕は感極まって泣きそうになったけれど、まだ泣くのは早いと思って涙腺を引き締める。

 右斜め前方で、見覚えのある顔がこちらの方を見ていた。「ヒッシー会長だ」と思う。ヒッシー会長とは、梨華ちゃんヲタ界隈の長老的存在である。ヲタクからも梨華ちゃんからも愛されている。その彼がひどく年老いて見えた。見えたと言うか、明らかにおじいちゃんになっていた。周りをちらりと見回すと、梨華ちゃんヲタたちはみんな老いてきている。もちろん僕も例外ではないが。20年くらい前は、推しかぶりを敵視しすぎるあまり、憎しみに近い感情すら抱いていたけれど、年老いた梨華ちゃんヲタたちを見ていたら僕は思った。「生きていてくれればそれでいいよ…」と。「もう憎しみ合うのはやめて、共に長生きをしましょう。今まですみませんでした」と。

 ちょうど17時50分にステージ上に姿を現した梨華ちゃんを見て、最初に思ったことは「超かわいい!」だった。その次に思ったのは「おっぱいが大きい!」だった。梨華ちゃんの配偶者のことを改めてうらやましく感じた。胸は大きいが、身体はスレンダーである。以前はかなりぽっちゃりしていたから、すごく努力したんだろうなあと思った。梨華ちゃんがこんなに仕上げてきているのに、一方の僕は過去最高に近い体重を記録しており、自分のことを非常に情けなく思った。

 梨華ちゃんは3年前と比べたらとてもたくさん、配偶者と子供たちの話をした。しかし梨華ちゃんの左手薬指に指輪は光っていないのを僕は見逃さなかった。「梨華ちゃん優しい!」と僕は思った。その優しさのおかげで、僕はパニック状態におちいらずに済んだ。僕の左斜め前にはとても古風な梨華ちゃんヲタが座っていた。ピンク色のバンダナを巻き、ピンク色のTシャツを着ている。マスクまでピンク色だ。僕は思う。「彼は梨華ちゃんの熱愛、結婚、出産とどのように向き合い、乗り越えたのだろうか。今の梨華ちゃんの話を聞いて何を思うのだろう」と。しかし彼の表情も心の内も、最後まで見ることは叶わなかった。

 梨華ちゃんは、インスタグラムを始めたことをみんなに報告した。それを聞いて僕は、「梨華ちゃんがツイッターも始めたらどうしよう!」と身体が震えた。僕なんか真っ先にブロックされそうだ。でもツイッターはやらなさそうなので安心した。けれどエゴサーチはよくしているらしい。「ふちりんに対する私信だ!」と思った。というのは、こんにち梨華ちゃんのことを頻繁にツイートしているのは僕くらいだからである。

 「DDについてどう思いますか?」というヲタクからの質問に対して、梨華ちゃんは「この方はDDだから、私のイベントにも来てくれるわけでしょ? 歓迎します!」と答えていた。DDの人は、梨華ちゃんを推すといいのではないだろうか。僕は大宮アイドールや指原を推すなどしているDDであるが、もともとの気質がそうなのではなく、梨華ちゃんを好きになり過ぎないための戦略的DDである。

 梨華ちゃんの息子はヒーローになりたいらしく、『鬼滅の刃』の柱の名前はすべて言えるようだ。まだ3歳なのに賢いなあと思う。「ウルトラマンとか仮面ライダーのことはよく分からないけど、『鬼滅の刃』は私も好き」とのことである。鬼滅は僕も好きだ。僕は思う、「いつか梨華ちゃんと酒を飲みながら鬼滅トークで盛り上がりたいなあ。炭治郎たんじろうのように純粋に、梨華ちゃんを愛することが出来たらいいのだけれど」と。

 梨華ちゃんは結婚をしたとき、「これで私のファンをやめる人がいても仕方がない。それは受け入れよう」と思ったらしい。僕は梨華ちゃんヲタを続けてはいるものの、まだ梨華ちゃんの結婚を完全に受け入れたわけではなかった。僕は思った、「いつか僕にもそんな時が来るのだろうか?」と。「いつか来たらいいのにな。そしたら僕も梨華ちゃんも、もっと幸せになれるのに」と。

 梨華ちゃんはイベントの最後に1曲だけ生歌で歌った。梨華ちゃんのモーニング娘。時代の代表曲、『ザ☆ピ~ス!』である。みんな着席したまま、手拍子をしたりフリコピをしたりする。この時点において、まだ大便の気配は薄いままだったため、僕はのびのびと梨華ちゃんのライブを楽しむことができた。照れくさくてフリコピは出来なかったけれど、手拍子をしながら心の中で梨華ちゃんの名前を力のかぎり叫んだ。梨華ちゃんが「全てを受け止めようと感じました」と歌ったとき、僕の心は、梨華ちゃんの全てを受け入れられる状態になった。しかしながらそれはたった数秒のことで、すぐに心の中には闇が忍び寄ってきた。僕はどうやら一生、この心の闇と付き合っていかなければならないようである。しかし今の僕は以前とは違い、心がとても強くなっている。どんなに闇が濃くなっても、それに完全に支配されてしまわないだけの力を持っているのだ。

 梨華ちゃんは最後の挨拶のとき、ファンに対する気持ちがあふれた様子で、涙ぐんでいた。今にも涙がこぼれ落ちそうだった。コロナのこともあって、梨華ちゃんの顔にはイベントの最初から最後まで、悲しみがうっすらとにじんでいた。前回の3年前のバースデーイベントでは、吉澤さんの飲酒ひき逃げ事件があって泣いていたことを思い出した。いつか梨華ちゃんの、少しの曇りもない笑顔を見たいなと僕は思った。

 僕は大宮駅に向かう電車に揺られながら、さきほどの梨華ちゃんのバースデーイベントの記憶を反芻はんすうする。そして「僕がやっているのは、いま流行りの“推し活”なのだろうか?」と自分自身に問うてみたところ、「ぜんぜん推し活じゃねえ!」と思った。よく分からないが、おそらく僕がやっているのは、もっと切実な何かである。

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