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デジタルログは私のお墓

悲しいことが起きた。LINEのトーク履歴が消えてしまったのだ。大学生からの約6年間、私がクラスの皆とやりとりした試験情報や、初めての彼女とのデートのお誘い、部活の辛いやり取りや、今の彼女と付き合い始めた頃のやりとり、同棲を始めた頃の「ご飯あるよ」のメッセージ。老後の楽しみがごっそり消えてしまったような気持ちになった。

なぜこんな悲劇が起こってしまったかというと、LINEのトーク履歴のバックアップ設定をオフにしていたからである。大学生の頃の僕は、今この瞬間に生きるフローにのみ重きを置いていて、LINEのトーク履歴のような過去に縋るのはしょうもない、と思っていたような記憶がある。どうやら僕は、過去に縋って老後の楽しみにするような、保守的な人間になってしまっていたらしい。

馬鹿にしているものの一つに、お墓がある。大阪の八尾というところに先祖の墓があるのだが、実家から遠く、維持コストも大変な金額なので、自分の代で墓じまいすると宣言している。両親や親戚は僕の狼藉を半分諦めつつも、歳を取ったら死んだ後に入る場所が欲しくなる、と言っているが、今の僕も似たようなものだと思った。現世=現在の生きた証を、拠り所となるものに残したい。LINEのトーク履歴は、僕にとって(そして多分、多くの若い人にとって)自分の人生を証明する墓標になっていると思う。

そして面白いことに、デジタルデータは詳細であるがゆえに、僕の生きている姿を再現することもできるだろう。SNSの会話履歴、決済履歴、位置情報など、ありとあらゆるデータを組み合わせれば、僕の行動パターンを予測してそっくりそのままトレースすることも可能だと思う。大体、人間なんて同じような行動の繰り返しだ。月曜日から金曜日までは仕事をして(パソコンのログ)、晩飯を作り(写真)、スマホを見て(ブラウザやアプリの利用履歴)、土日には恋人に愛を囁く(SNS)。もし、自分のデータから再現された僕ロボがいたとして、それが僕でないと言い切ることは難しいだろう。

逆にいうと、生きるということは、生きた証を記録し続けることなのだろうか、それとも記録からは再現できない僕自身を作りあげる煌めきであろうか。どちらも答えかもしれないし、どちらも間違いかもしれない。きっと答えは出ないが、死ぬまで考え続けるだろう。ただ、なんとなくだけれど、墓石という物理歴な媒体が欲しいかどうかは置いておいて、生きた証は残したいと思う。

カツ丼食べたい