【うまく伝えられるかわからないけれど】自動修復機能を破壊したい

ライターという仕事をしていると、どうしてもなるべく多くの人に伝わるように、読んだ人に共感してもらえるように記事を書くという手グセがつきます。逆に言うと、まだ自分の中でも何を言いたいか明確に整理ができていないことや、言っても人にはわからないかもしれないという感情はなるべくアウトプットしないという習慣もおまけでついてきたりします。

この「うまく伝えられるかわからないけれど」は、言ってしまえばそういう未整理のまま下書きフォルダに放り込んでしまう心の動きを、なるべくそのまま、読みやすく、わかりやすくしようとせず、書いてみようという試みです。

なので、今いち何が言いたいかわからないかもしれません。全然共感してもらえないかもしれません。でも、未来の自分への備忘録として書いてみます。

1回目は、この「そして、生きる」というドラマを見て感じたことを書きます。ちなみに具体的なあらすじや結末について言及はしません。ただ、読むとなんとなく想像できる部分もあると思います。従って、まっさらな気持ちで作品を楽しみたい未視聴の方は、その点をご了承の上、あとは自己判断でお楽しみください。

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まがりなりにも38年も生きていると、いよいよわかってくることがある。

そのひとつが、人はなんだかんだ言って幸せになれるということだ。

この人以外には考えられないと思うくらい好きになった人も、これが自分の夢なんだと信じて掴んだ仕事も、別にそれは絶対じゃなくて。その人と別れたって生きていけるし、その仕事を辞めても死にはしない。

ありがたいことに人間には自動修復機能というか、形状記憶装置みたいなものが備わっていて。どんなにでっかいヘコみも、どんなに無残な傷も、時が経てば少しずつ癒えていって、いつかちゃんと笑える日が来る。

もう絶対誰も好きにならないとあれほど泣いたはずなのに、また新しい恋に出会い、するすると溺れていくし、ここは自分の居場所じゃないと啖呵を切ったような仕事もいつの間にかやりがいに目覚めたり、居心地の良さを感じたりする。

人は、その場所でちゃんと咲ける。最初はどんなに合っていないように思えた容器でも、ちゃんとそのサイズや形にはまるように自分を変化していける。

そして思うのだ。あの頃夢見た場所とは違うけれど、こんな人生も悪くないと。

それはもうすごくいいことだ。拍手したい。そうやってみんなが自分の人生に少しずつ折り合いをつけて、生きる意味を見つけて、これまでの道のりを肯定していけるから、人はなんとか狂わずやっていける。人間というのは、とてもとてもしぶとく、たくましい生き物なのだ。


でもその事実が、たまに無性に悲しくなる。結局、人生になくてはならないものなんてひとつもなくて、どれもこれも代替可能で、僕たちはそれに気づきたくなくて、永遠とか、かけがえのなさとか、そういうものにすがりついているんじゃないだろうかと。

今、僕の心を占めている大切な人も、今この瞬間はいなくなったら生きてはいけないと思っても、場所を変えて時間が経てば、全部いい思い出に変えて、僕はまたちゃんと笑って生きていける。

そのどうしようもない強靭さに、ときどき絶望したくなる。

別にいいことじゃないか。そうやって自分で自分の傷を回復させられなきゃ、とてもじゃないけど生きていけない。何も悲観することじゃない。

そう頭ではわかっているのに、何がそんなに悲しいんだろう。何がそんなに寂しいんだろう。

答えは簡単で、つまり僕にとって誰も彼もが代替可能ということは、僕もまたあらゆる人にとって代替可能な存在だからだろう。

この年になって今さらなくてはならない存在になりたいなんて大それた欲望を自分が持ち合わせているとは思いもしなかったけれど、でもこの途方もない自己顕示欲からは一生逃れられないのかもしれない。

あるいは、自分の自動修復機能の優秀さに辟易としているのかもしれない。どんどんどんどん上書きして、かつて大切だった人をモブに変え、あんなに焦がれた夢さえもカバンの底でぐちゃぐちゃになったプリントみたいにしている自分に、もううんざりしているのかもしれない。

あとどれくらい僕は傷や痛みや喪失を自動修復していくのだろう。その図太さが、一生懸命泣いたり苦しんだりしていたあの頃の自分への裏切りみたいで、ふっと土下座したくなる。

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