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空海の錯誤

黒井さんの批評に答えての記事です。

どうも漱石やりすぎて調子が狂いまして本人に会いたくなったわけですが、実は情が移るというか、作家が近くなりすぎる現象は前からありまして、「斜陽」をやっていたときは太宰が自宅に常駐しておりました。畳に座って、落ち着き無くそわそわしています。しばらくそわそわしていて、突然考え始めます。すると全く動かなくなります。その時太宰の目は落ち窪んで真っ黒な穴のようになります。ああこの人はいかん人だなあ、と思いました。現物に近寄っちゃいかん。静かな殺人鬼だ。幽霊でよかった。

そうなるのはつまり、太宰ほどの文章力が残念ながらなく、構想力も残念ながらなく、ヤバいエロスも幸福なことになく、だから肉体労働で章立て表作って(おっしゃるように)ガリガリの正面攻撃で太宰の作品を理解しようとするからで、肉体労働にはじき出された感受性の部分が私自身の中で居場所を探して外に出るのだと思います。自分で自分の感受性を弾圧している部分が確かにあります。

私のやっていることは、いわば宮本武蔵や柳生但馬をAK47でなぎ倒す作業でして、日本刀もっても絶対に勝てない、だからどうするか、の作業です。でも、実は文学以外では普通の行われている作業だとも思うのです。
数学力の高い人がいます。今日ではガウスのやったことがだいたい理解できている人は、相当の数に登るでしょう。しかしガウスほどの才能の持ち主は、ほとんど居ない。ではガウスほどの才能がない人が、ガウスの発見を理解することは、意味がないのか。意味はあると思います。むしろできるだけ理解しなければならない。理解してくれた方が多いので、今日の生活を私達は享受できています。私は理解していませんが。

話かわって最近どうも大乗起信論問題に決着がついたようです。

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/37990/jbk076-01-ishii.pdf

ここに記された本、私は読んでいませんが、著者の大竹氏は語学的にも教養的にも優秀な方だと思いますが、コンピューターでの語法の検索も非常に力になったようです。データーベースの力を借りて、1400年の疑問が解消した。類似語句すぐに見つけられますから。大乗起信論は空海も親鸞も井筒俊彦も重要視した経典だそうで(私は読んでいません)、だからと言って大竹氏の素質が空海以上とは言えませんが、ことこの点の見識に関しては、データーベースを十分使い、語学教養が有る人ならば、今日では部分的には空海以上になれる。大竹氏もいわば、AK47でなぎ倒したのです。
このようなアプローチは、おそらく止まりません。テクノロジーの発展と、その使いこなしが問題になるからです。大竹氏が「仏教をよくわかっている」かどうかまでは私の実力では考えられません。仏教の中に生きれているかどうかもわかりません。しかしこの流れは止まらない、ことだけはわかります。

先人たちが本にメモを書いたり、付箋貼ったり(今日でもしている方居ますね)、そんな作業の延長線上に表計算ソフトの章立て表があります。そのうちより一層ブラッシュアップした方法論が編み出されます。私の読み解きは「読めていない」となると思います。最終到着地点がどこになるかの見通しはありません。空海でさえ、うかうかできない世の中ですから。

文学と他者との関係については稿を改めます。


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