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選んだ道を正解に

No.25 奥野睦生(明秀日立)



日頃より富士大学サッカー部のご支援、声援のほどありがとうございます。

富士大学サッカー部の奥野睦生です。

ここ最近は同期の部員ブログが毎日のように投稿され、みんなの心のこもったアツい文章を読むことが本当に楽しみな日々となっていましたが、とうとう自分の番が回ってきました。

下手くそな文章になると思いますが、最後まで読んでいただければ幸いです。よろしくお願いします。

まずは自分を知らない人が多くいると思うので選手歴を少しお伝えしたいと思います。

さいわいFC→fc多摩→明秀学園日立高等学校
→富士大学となります。

去年の夏では自分の所属していた中学以降のチームが
クラブユース、インターハイ、総理大臣杯で日本一となり、サッカーしてる人の中で唯一じゃないかなと思っています。

チームとしては強豪ですが、自分自身のサッカー人生は決して誇れるものではありませんでした。


思い出すだけで嫌になる中学時代、少し書こうと思います。


「公式戦に一度も出れなかった。」


小学5年生の頃に所属していたチームの先輩のつながりもあり、fc多摩の練習参加をして内定をもらった。

小学生時代、多少はサッカーに自信はあったし、チームではキャプテンで王様、
そのまま何とかなるだろうと思いfc多摩に入った。

最初の練習でボールを頭にのせてキープしたり、アウトサイドだけでリフティングしたり、全く出来なかった。

周りは半分以上が当たり前のように出来ている。

その時は気づかなかったが周りはチームに合流する前に必死に練習してた、その時点でなめていたし、覚悟が違った。

それでもなんとか誤魔化し、最初のカテゴリー分けではスタメン候補のとこにいた。

新入生で初めての練習試合、スタメンで試合に出て
何も出来ない、

練習の時から薄々気づいてはいたが自分は周りより
身長も顔ひとつ分小さい、足も遅い、身体も弱い

でも技術でなんとかなると思っていたが、中学生のスピード感では全く通用しなかった。

そのまま1軍、2軍、3軍、4軍、下級生の上手い選手たちも飛び級してきたので、4軍の余りまで落ちていった。

そんな自分たちの余り組の呼び名があった。

      「トンボ隊」

紅白戦をスタメン組とサブ組がしている中、トンボ隊は試合が終わるのを待ち、終わった瞬間に走って土のグランドの整備をする。

試合を終わった選手たちは着替えを始める。着替えを終わった選手たちに早くしろと言われる。

むかついた、でも何も出来ない。

紅白戦をしてもハンデをつけられる。

トンボ隊のみんな元気にしてるかな、

そんな何も残せない反抗期の中学生時代でした。



「二度とサッカー出来なくてもいいから」


それでも高校サッカーに強い憧れがあり、選手権に出たく、いくつかの高校に練習参加させてもらって、
茨城県の明秀学園日立高等学校に進学させてもらうことになった。

決め手としては中学時代の自分を1人のサッカー選手、人として見てくれたことが嬉しかったから、

中学の二の舞になるわけにはいかないと思い、高校では入学して、練習、学校生活全てにおいて全力で取り組んだ。

その取り組みもあり、身を結んで2年生のリーグ戦で開幕スタメン掴むことができた。

しかしまたやらかしてしまう。

試合に出始め、気づかぬうちに天狗になっていた。

試合中に腰パンをしていると監督からハーフタイムに
明日から一番下のチームと言われた。

そこから、不貞腐れたり、自分の機嫌を表に出したりしてしまった。

それでもカテゴリーのみんなは自分の成長の為に日々努力していてこのままじゃダメだと思い、そこから態度を改めることができた。

見捨てずに一緒に居てくれた仲間、怒り続けてくれたスタッフには感謝してもしきれません。



自分の大きな夢であった「選手権」

小さい頃みた、 

2012年の市立船橋対四日市中央工業戦

衝撃だった。

そこからは毎年のように選手権シーズンになると
直接観に行ったり、お正月ずっとテレビで選手権を観ていた。

そんな憧れの選手権も、とうとう自分たちの番が回ってくる。

順調に勝ち上がり、県予選準決勝 古河一高戦、

人生で初めてのスタジアムでのサッカー、それも
カシマスタジアム

緊張もしたし、普段感じない空気感に圧倒されてしまい、いつも通りのプレーができない

ハーフタイム監督から喝を入れられ、力が入りすぎた結果 絶対に間に合わないボールに対して突っ込んでしまい、腰の骨を3本折ってしまった。

今では、弾丸ミサイルとか言われて笑い話だけど、

その時は決勝戦に出れるかの不安しかなかった。

監督、スタッフには怪我の内容を伝えたが、チームメイトにはただ腰が痛いとだけ伝えていた。

そして、勝てば憧れの選手権に出れる決勝戦の日がやってきた。

相手は鹿島学園

自分は痛みが引くわけもなくベンチスタート

試合前にも勝っていたら最後に守備固めとして出すと言われていた。

しかし、均衡した試合の中、まさかの後半20分からの出場

自分はもう一生サッカーが出来なくなってもいいから
この試合だけは勝ちたかった。

延長戦までもつれた接戦

延長前半、一瞬の隙を突かれて失点

1ー2で自分たちの冬は終わった。

ピッチの中では一切泣かなかったが、ロッカールームに戻ってみんなの顔を見たら涙が止まらなかった。

親たちへの最後の挨拶でまた泣いた、

人生で一番悔しかった、だから今があるんだろうけど

明秀を選んで本当に良かった。ほんとに

選手権に出たくて、きつい練習も耐えれた。

プロになりたいとかは全くなく、選手権に出たいほんとにただそれだけだった。


だから大学サッカーを続ける気はなかったが、夏にオファーを千田さん(監督)からもらって連絡を返さずにいたが再度連絡をいただき、練習参加をした。

その時に先輩のアパートに泊まらせてもらうことになった。

この時に泊まらせてもらったのが昨年の副将の千葉希

めっちゃ優しくて、周りの人も優しくてこの人達とサッカーしたいってなんとなく思った。

これが大正解だった。

そんな経緯もあり、富士大学に入学することを決めた



「岩手」


直感で決めた、大学サッカー。

富士大学って岩手県って知らなかったし、

寒いの嫌いだし

特に目標がなかった。周りみたいにプロになりたいわけではないし、ただサッカーやるなら負けたくない。

明確な目標がなかったからただ淡々と毎日を過ごしていた。

高校生活では寮生活をしていたため、
大学生になって一人暮らし、何をしても誰にも怒られない

この環境に自分を律することが出来なかった。

そして10月3日 大きなやらかしをしてしまう、

大学を辞めることになってしまった友達の送別会をすることになった

サッカー選手としてやってはいけないことしてしまった。

チームから外され、チームの活動に出来ない期間が
長く続いた。

奉仕活動を4ヶ月程度、寒い日もどんな日も草をむしって、掃除して、サッカーがまた出来る日が来るまで
誠意を見せ続けた。

辞めようと何度も思ったけど、あのとき耐え続けて、よかった

そのおかげでその仲間たちとも今も一緒に居られる。

どんなに辛くてもサッカーの出来ないグランドに通い続けることが出来たのはなんでなのか、今も正直なところわからない。

監督からチームに戻って良いと言われ、自分たちの
奉仕活動は終了した。

そこからはTOPチームなど雲の上の存在

チームのお荷物扱いで社会人リーグのカテゴリーに
入ることになった。

やらかしてしまっていたと言うのもあり、シーズンが始動しても全く試合に出れない。

スタッフにも信用されていないのが伝わってくる。

それでも自分らしくやり続けることで、少しずつ
チームメイト、スタッフが自分を理解してくれた。

社会人リーグの監督である英太郎さんのおかげで、大学サッカーの楽しさ、富士大学の楽しさ、もう一度サッカーを真剣に取り組もうと思わせてもらいました。
ありがとうございます。感謝してます。

そこからサッカーの楽しさを取り戻し、大学2年生では、全国大会に3回出場する機会をもらった。

大学3年生からはTOPチームに入ることが出来た。

TOPチームに入ったことも嬉しかったが、大好きな
4年生とサッカー出来るのが嬉しかった。

毎日練習が終わったら、誰かのアパートに集まる、
しょうもない話を何時間も何時間も、

練習に行くのも楽しみだし、その後みんなで集まるのもほんとに楽しかった。

そして、6月から始まった総理大臣杯

順調に勝ち上がり、勝てば全国

相手は八戸学院大学

前半0ー2 うまくいかない

後半に2ー2まで追いつくが、残り10分ないあたりで
失点

残り数分まで  2ー3

負けたら辞めてしまう4年生がいることはわかっていたのでどうしてもまだ一緒にサッカーがしたかった。

ラスト、パワープレーで前線に上がると、遥翔のからのパスにクロス上げると、やすのスーパーゴール

点が決まった瞬間、自然と涙が出てきた。

ほっとしすぎてみんなの喜んでる輪にも行けなかった。

だいくんあの時、名前叫んでたの聞こえてたよ。

その試合もしっかり勝ち

全国大会ではそのままの流れで全国優勝。

楽しかった、四年生とサッカーするのが

ここまで長々と自分のサッカー人生を話してしまいすみません。


2024年シーズンからは主将を務めさせてもらいます。

自分は強い人間でも、人格者でもありません。

4歳から始めたサッカーにも終わりが見えてきた

あと1年何を残せるか

富士大学をもっともっと全国に広めたい。

今まで自分に関わってもらった全ての人にサッカーで恩返ししたい。

今年のチームでみんなで喜びたい。

どんな時も信じて、自分で選択させてくれた両親に
サッカーで感謝を伝えたい。

すべきことはたくさんある。

やるしかない

みんな、

おれはすぐ怒っちゃうし、

おれがキャプテンやらない方がいいと思うし、

迷惑たくさんかけてきたけど

一番苦しい時は絶対先頭に立って闘い続けるから

それしか出来ないから

みんなで最後まで闘おう!





最後まで読んでいただきありがとうございました。


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