1話 明日が、怖い。
「ただいま…」
やっと、家に…渇望していた家についた。
でも明日のことを考えると、胸が苦しくなる。
どんどん心が悪の色に染まっていく。
振り切るようにして私はドアを開けた。
私には一緒に住んでいる人がいる。
その子の名前は由宇。私にはもったいないくらい、美人で可愛い。
「由宇、ただいま…」
「おかえりー」
由宇の返事が返ってきた。由宇はまだ起きているらしい。
ぐらぐらとした感情のまま、私は由宇のいる部屋に向かっていく。
「ごはん、食べた?」
私は聞いてみた。
明らかに疲弊した顔とお腹の音。
おそらく昼も食べてないのだろう。
彩萌は食卓に乗ったご飯を見て、ごくんと唾をのむ。
「…た、食べたよ。だから、だいじょぶ」
彩萌がそういった瞬間、よだれが口から洩れる。
慌てて彼女は口を拭いた。
「無理しちゃだめだよ。ごはん、一緒に食べよ?」
ご飯がうまくのどを通らない。
味もほとんど感じられない。
胸が苦しい。お腹が…苦しい。
「おいしい?」
由宇は私の表情をうかがいながら、そう聞いてくる。
咄嗟に私は作り笑いをした。
そうしないと、由宇が悲しんでしまう。
「…ほんと?なんか、つらそうだけど」
由宇が心配そうにこっちを見つめてくる。
その表情が私の着飾った仮面を剥がそうとしてくる。
不安になればなっていくほど胸の苦しみが、お腹の苦しみが強くなっていく。
そう感じ始めたとき、何かがお腹から戻ってくる感覚がした。
思わず口を押えて、部屋を後にする。
「あっ、あや!大丈夫?!」
最近の彩萌はとても心配だ。
毎晩深夜にならないと帰ってこないし、日に日に笑わなくなってきている。
おまけに、昨日からご飯もうまく食べられないみたいだ。
今日もご飯を食べている途中で気持ち悪くなっちゃったみたいだ。
「私の方が…無理させてるのかな?」
彩萌の嘔吐が聞こえる。逃げるように私は食卓を片付けに向かった。
一体何分経っただろう。
戻って時計を見ると午前の2時を超えていた。
由宇は既に布団で寝ているみたいで、声をかけても返事をしない。
「6時には起きなきゃ」
私は布団をかぶるが、全く眠る気が起きない。
明日のことを考えれば考えるほど、不安が頭の中を埋め尽くしていく。
頭だけじゃない。体全体が不安でいっぱいになっていく。
だんだん体が寒くなって震え始めた。
布団をかぶっているはずなのに、とても寒い。
歯がガチガチと音を立て始めた。
明日が、怖い。
明日なんて、来てほしくない。
明日なんて、死んじゃえばいいんだ。
行きたくない。会社なんて行きたくない。
行きたくない。ずっと、家にいたい。
行きたくない。こんな生活をあと何十年も…。
「あや、だいじょうぶ?」
由宇が目の前に現れた。
さっきの心配そうな顔とは比べ物にならないくらい、不安そうな顔をしている。
もう、私には仮面を作る余裕はなかった。
自分でもどんどん表情がゆがんでいくのがわかった。
「ほ、ほっといてよ…」
震え声でそういうのが精いっぱいだった。
「あや、無理してな…」
「うっさい!もう喋らないで!!話しかけてこないで!!!」
彩萌は私にそう怒鳴った。そして、私から顔を背ける。
時間が止まったかのように、今の言葉が反芻していた。
どんなに遮ろうとしても、頭から離れない。
体が冷たくなり、目が潤い始めた。
どんどん息苦しくなってくる。このままじゃ嗚咽を出してしまう。
私は静かに部屋から出ていくのだった。
――――分かっている。由宇は本当に私を心配して、話しかけていることくらい。
――――分かっている。私にとって由宇が大事な存在なことくらい。
――――分かっている。こんなことしたって、何にもならないことくらい。
――――分かっている。私が由宇に嫉妬していることくらい。
――――分かっている。私が…本当は私の方がひどい人間なことくらい。
頭の中でぐるぐると考えが出てきて、押しつぶされていく。
もう、止めることができない。
自分を責める言葉が体全身から放たれていく。
ただでさえぼろぼろの心が、もっと傷ついていく。
――――でも、我慢しなきゃ。我慢して、頑張らなきゃ。
頑張って、明日も会社…行かなきゃ…。
行かなきゃ…。
気が付けば、外は明るくなっていた。
時計を見ると5時半になっている。そろそろ準備しなきゃ。
化粧をして、スーツを着て、髪を整える。
荷物の確認をして、胸の苦しみを抑えながら支度を終えた。
ふと由宇を見ると、悲しそうな表情でじっと私を見つめている。
その目は真っ赤に充血していた。
私は気にしないふりをして、外に出ようとする。
「じゃあ…行ってくるね。由宇」
「……」
由宇は返事を返さなかった。
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