生意気にダウンタウンを語ります

ダウンタウンさんがめちゃくちゃ久しぶりに、センターマイクを挟んで2人でしゃべっていた。
30分超のアドリブ漫才。
僕は初めて「お笑いライブ」の配信チケットを買った。

買って良かった。
観れて良かった。
何度も何度も観たけど、気づいたら配信期間が終わっていた。悲しい。

そんな時に語るのは遅いかもしれないけど、だからこそ逆に語らずにはいられなくなってしまった。

「フリートークだった」という人もいるけど、あれは紛れもなく「漫才」だった。
「完成形」ではないけど「理想形」だった。
漫才の理想形。

みんな「ネタ」「台本」という言葉を当たり前に使うようになったが、どんな漫才も全て、袖から出てきたらさもその場で初めて話すことのように始める。
台本なんてないかのように。
ダウンタウンは、本当に台本のない漫才を、本当にやって笑いを獲ったのだ。

いやほんま生意気にすんません。

「普段舞台に立っていないのに、漫才できるんだな」
という意見を見かけた。
「そういうこっちゃないやん」と思ってしまった。

僕はダウンタウンさんの番組に出させてもらったことはないが(大勢の若手の中の一人、という出方はある)ダウンタウンさんが余分にVTRを回さないことは有名だ。
つまり、60分番組(実質50分とか)なら、ほぼその尺で撮り切る。

これだとほぼ生放送と同じ。

それは「早く帰りたいから」「手を抜いてるだけ」と言う人もいるが、もしそうなら今のような位置にいないと思う。
あからさまな手抜きは見抜かれる。
テレビを作ってる人たちもまたプロ。
知名度だけであの位置に何十年も居座れない。

普通はたっぷりと収録する。
僕が参加した(めっちゃ少ないけど)限りのバラエティ番組で言うと、短くても放送時間の1.5倍以上。だいたい2倍。
長ければ3〜4倍も。
そこから面白いところをディレクターさんが編集し、いわばその回の「ベスト盤」を作るのだ。
それはごく普通の感覚。当たり前。

でもダウンタウンさんはそれをしない。
何年も、きっと10年以上も。

これは完全に推測だけれども
収録のたびに「勝負」しているのだ。
収録部分のどの部分を使っても面白いように、無駄な部分を出さないように勝負していたのだ。
そしてその勝負に勝ってきたのだ。

どんなに活きのいい後輩芸人が来ても、真っ向勝負でボケを返す松っちゃん。
天然なことを言うアイドルやアスリートが来ても、拾って笑いにする浜ちゃん。
余すことなく面白い部分になるように、毎回の収録で勝負していたのだ。
コンビの時も、ピンで出てる時も。

あの漫才は、我々からしたら特別な時間だったが、決して「久しぶりの舞台」ではなかったのだ。
いつも、何年も何十年も勝負していた、その延長線上だったのだ。

だからってプレッシャーがなかったはずはない。と思う。
二人っきりの空間で、期待以上の笑いを作り出さねばならないのだから。

だからこそ松本さんは「打ち合わせなし」という博打に出たのだ。
浜田さんのツッコミを信じ、かつ浜田さんを活かすために。
浜ちゃんは見事に松っちゃんの期待に応え、いや期待を超えて、見事に博打に勝ったのだ。

ああ、恥ずかしげもなく語ってしまった。
やはり僕はダウンタウン病だ。
ダウンタウン病というのは、僕の世代の芸人がよく使う言葉。
松本さんのエッセイ「遺書」「松本」を読んで、もろに影響を受けた世代。
ダウンタウンになろうとして、越えようとして、舞台や楽屋での立ち振る舞いをマネしてきた世代。

そして

超えれなかった世代。

中学生の時にダウンタウンの漫才を観て衝撃を受けた僕は
35年の時を経て、いつしか同じ道を選んだ僕に、またも違う類の衝撃を与えてくれた。
今回の漫才によって、ダウンタウン病は我々世代の不治の病になってしまった。

まだまだ語れるけど。
今日はこの辺にしといたろ。

またnote書きますわ。

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