返信は、いりません。

「群像」2019年1月号に掲載された作家・笙野頼子の小説「返信を、待っていた」について、2018年12月22日の私の投稿をきっかけにツイッターで議論が起きた。火付け役であり、作中で「最も私にきついアカウント」と表現された者として、見解をまとめておく。

0.何を問うのか

まず、文学を読まない私がこの文芸誌の小説に気づいた経緯について。

2018年9~10月の「ベルク騒動」(後述)のときに、私は「アホフェミ」という言葉を積極的に使うように呼び掛けていた。このとき「アホフェミ」という言葉が、使っている人たちの意図を離れていく可能性が、アホフェミを批判する側からも懸念されていた。そこで私はその後も時々ツイッターで「アホフェミ」を検索して、その用法がどうなっていくのか観察している。そこで引っかかってきたのが文芸評論家、岡和田晃の↓のツイートだった。

つまり私が「群像」を読んだのは、「アホフェミ」について何かが書かれているらしかったからに他ならない。文学的関心ではなく、「アホフェミ」論争の当事者としての関心で読んだにすぎない。

よってこの小説の文学性を論じる気はない。私の関心は「笙野の文学がどうなのか」ではなく「笙野が文学で何をやったのか」である。「文学でできることを」という特集の中の一篇として発表されたこの小説にこの問いを立てることは、作品の質ではなく、作家の在り方を正面から問うことである。

また、作品全体を論じる気もない。ここ数週間の笙野擁護のツイートの中に、作品の一部にすぎないことを切り取って論じるのは間違っている、という趣旨の投稿があった。私の関心は、一部だろうと全体だろうと「アホフェミ」論争(後述)がそこで扱われたことにつきる。そこから透けてみえるものを描写するまでである。

「アホフェミ」論争は笙野の創作ではなく、実際に起きた論争だ。笙野はそれを描くにあたり、登場人物の名前などの固有名詞と「アホフェミ」という特徴的な語を消去している。これは「虚構化」という文学上の手続き、として笙野を擁護する投稿があったが、先述の通り、そのような文学性は私の関心の対象外だ。作品の文学性ではなく「笙野が文学で何をやったのか」を基準にしてみるなら、笙野がやっていることは「虚構化」ではなく「暗号化」である。実在のものを架空の存在に昇華しているのではなく、おそらく笙野自身がそのように実在すると思い込んでいる何らかの像を、関係者だけがそれとわかるように細工しているのである。

事の次第をつまびらかにするために、まずは読み進めながら「笙野が何をどう書いたのか」、その暗号を解読していく。

1.「アホフェミ」論争と笙野頼子の接点

該当箇所はp.22、上段五行目から始まる。

「私の作品に出てくる造語を恣意的に引用して、それを女性差別と弱いもの苛めの正当化に使う「反権力」を見つけた。」

これは以下のツイートをした森川暁夫のことだ。笙野は最初このツイをエゴサーチで見つけたのだろう。

これを放置すれば自分(笙野)は女性差別の道具に使われ、「作品を捕獲されてしまう」、だから放置しない、これが笙野自身が主張する「アホフェミ」論争参入の動機である。簡単に言えば、笙野が差別表現だと思っている「アホフェミ」という言葉を肯定するのに自分の造語が使われ、それによる差別がなされるのを放置するわけにはいかない、ということだ。

「群像」の前段として、「アホフェミ」論争たけなわの10月20日付けで笙野のコメントが、岡和田のブログに岡和田による説明付きで発表されている。ここでも同様の説明が岡和田を介するかたちでなされている。

2.「「反差別」として有名で有力な勢力」とは

「群像」に戻ろう。笙野がここでいう「反権力」とは、ツイッター上で当人たちが慣習的に使う表現をすれば、「反差別界隈」の人々である。

 笙野は私をこの勢力の一人とみなしているらしいし、実際当たらずとも遠からじだが、私はこの「界隈」について詳しくない。私と「反差別界隈」の関わりは、2018年春の「ヴィーガン論争」からだった。仕事が駆除される野生動物専門の肉屋なので、一部ヴィーガンによる悪辣な動物愛護や肉食文化への蔑視は他人事ではないからだ。この界隈は、何年も活動を共にしている同士もあれば、私のようにたかだか半年のつきあいの者もいる。「反差別」という以外に共通項もなく、組織もなく、面子はかなり流動的で、しばしばいがみあう。「界隈」というあいまいな線引きはそういうものだ。

森川も、ネット上で、路上で、各種の差別に抗議する「界隈」の人だ。ちなみに私が森川を知ったのは、「LGBTには生産性がない」とする杉田水脈による「新潮45」での差別事案の抗議行動を通してである。先の森川の投稿がされる、たった二か月前にすぎない。面識はいまだにない。

ベルク騒動では、その反差別界隈からベルク擁護派に回った人が多くいた。

3.ベルク騒動

ここで、小説の背景にある「アホフェミ」論争と、その前段のベルク騒動について説明しておく。2018年9月、新宿にあるベルクというカフェの店長井野朋也がツイッターをエゴサーチしていて、客が店内のタバコの副流煙についてつぶやいていたのを発見、リプライした。客がその対応を不快に感じ、客のフォロワーを巻き込んで、同様の対応は男性にはしていない、と言い出し、

→女性狙い撃ちで攻撃

→店長が女性差別している

という主張が広がっていった。これをきっかけに「店長が女性差別をした」という「ベルク批判派」と、「差別はデマ」とする「ベルク擁護派」が、ツイッター上で大論争を繰り広げた。「ベルク炎上」「ベルクの件」などと呼ばれているこの事案を、ここでは「ベルク騒動」と呼ぶことにする。他にもいくつかの問題をはらんでいたこの騒動が大きく広がったきっかけが、女性差別の有無についての認識の食い違いであった。

4.「アホフェミ」論争

のちに判明するのだが、この匿名アカウントの「客」はツイッター上でフェミニストとして活動する人気アカウントだったらしい。そしてそのフォロワーには同じようにフェミニストとして振る舞う者が多数おり、その中からベルク批判派にまわる者が続出した。その一群に向かって反差別界隈の野間易通が9月16日の「アホフェミが。」に始まる一連の批判投稿をし、井野もそれに乗じる形で「アホフェミ」という言葉を使った。これをきっかけに、「アホフェミ」という言葉が差別表現なのかそうでないのかをめぐる論争が起きた。これを私は「アホフェミ」論争と呼んでいる。

「アホフェミ」論争はベルク騒動の枠の中でおきたものだが、笙野頼子が直接接点を持つのは「アホフェミ」論争の部分なので、別の名前をあてておく。この論争は、ある飲食店の客対応がどうということを超えて、フェミニストなりフェミニズムなりがどうあるべきなのか、という問題提起でもあった。以下ではベルク批判派=アホフェミと呼ばれた側(以下アホフェミ側)、ベルク擁護派=アホフェミ批判側、とみなして頂いてさしつかえない。もちろん「どっちもどっち」派は世の常としていたが笙野を論じることに関係がないので省略。

5.「アホフェミ」とは

「アホフェミ」とは、「アホなフェミニスト」の略である。ベルク騒動での使われ方は「論証せずに女性差別を主張するフェミニスト」。この言葉が表現として是か非かは多様な議論があった。私の立場は「是」。

既に多数のアホフェミ批判側が指摘している通り、ベルク騒動での女性差別主張には根拠がなく、デマであった。アホフェミ側が用意した理屈はどれも「差別と感じられたから差別」という印象論にすぎない。最初に主張された「女性狙い撃ち」については、最初の「客」のアカウントが匿名であり、以前からの知人でもなければ性別の判別は不可能。一方、差別は行為だ。たとえ誰かが内心に差別的な考えを持っていても、それが行為として現れなければ「差別があった」と主張することはできない。アホフェミ側はついぞその行為の証拠を出すことがなかった。

ありもしなかった「女性狙い撃ち」を根拠に差別を主張したことがまず「アホ」であり、その主張が当人たちのフェミニズムに基づいているので彼らは「アホフェミ」と言われたのである。彼らには他にもアホと言いうる行為が多々あったがここでは省略。なお、アホフェミ批判側=言葉としての「アホフェミ」肯定派ではない。それは私のような「何が問題なの?」から、「よくはないけど仕方ない」、「私は使わない」、「「」つきで使う」、「よくない」など、かなりの幅があった。

少なからぬ数の反差別界隈が、相当な抵抗があったにもかかわらず、曲がりなりにも女性差別反対を訴える勢力になぜ「アホフェミ」と言い続けたかというと、一つには彼らが自分を守るはずのフェミニズムのあるべき論理や秩序を自らなぎ倒していたからだ。「差別と感じたから差別」という主張がいかに反差別運動の足を引っ張るのかについては、論争当時の野間の一連の投稿がある。クリックしてスレッドを通読していただきたい。それは差別者に逆に利用されるし、反差別運動の社会的信用を損なう。濡れ衣という暴力にもつながる。

笙野が岡和田のブログで発表した、アホフェミという言葉には「批評性がない」という最初のコメントは、当然ながら何人もの反差別界隈の者から批判された。以上みてきたように、「アホフェミ」は批評性の表れ以外の何物でもなかったからだ。

笙野が「返信を、待っていた」p.226-7行目で

「するとその、自称反差別勢力が私を敵認定してきたのだった」

と書いているのはこのことである。

6.デマへの加担

読み進めよう。p.22下段9行目

「もともと彼らの女性差別は自分たちのお気に入りの店、与党でいえば政治料亭のような飲み食い所の、身勝手な横車を通すために繰り出されたものだった。つまりは私益のため」

「政治料亭のような飲み食い所」とは、ベルクのことだ。ベルク擁護派が店のひいき客である、という笙野の見方は、批判派が撒いたデマである。「最も私にきついアカウント」と笙野により笙野批判者の代表格扱いされている私は、ベルク騒動までこの店を知らなかった。「アホフェミ」論争たけなわの10月7日、東京に出向いたついでに食事しに行っているが、行ったのは今までそれ一回きり。擁護派には「ベルク行ったことないけど」「ベルク知らんけど」などと言いながら投稿するものが多数いた。ベルク批判を始めた「客」は、ベルクのリピーターだった。

反差別界隈がベルクを擁護し、アホフェミを批判した理由はすでに見てきた通り。行ったこともない店の擁護に私益もへったくれもない。当事者からの声を一つ拾っておく。


p.22 下段12行目からの、「野党が控えている」や「内閣府に雇われた書き込み屋」、のことは知らない。しかし「世間は見ていた」ってえらいまた雑駁な。誰やねん、「世間」って。

同18-22行目。

「その差別事件(筆者注:アホフェミ呼ばわりのこと)は店の地元で行われた重要選挙の直前であり、憤る女性たち何十万人もが、その差別的な侮辱語を見た。中には選挙に行く気が失せたというツイートもあった。そして投票率の低さもあった。結果?その店にやって来ることもある反ヘイトの野党候補は、負けてしまったのだ。」

そんな選挙があったことも知らなかった。調べてみるとなるほど、11月11日に新宿区長選があり、ベルク店長が応援していた候補は負けている。で、その「憤る女性たち」の一体何人が新宿区の有権者なのか。「アホフェミ」論争とその選挙に何の関係があるのか。だいたい気に入らないことを言われてヘソまげて選挙棄権とは、どこのお姫様なんだか。なお、このデマが笙野のオリジナルなのか元ネタがあるのかは知らない。

p.23 上段3-4行目。国籍差別問題で反差別界隈が使う「明らかにとんでもない差別語」とは、野間の造語(?)「糞チョソン人」のことだろうが、いったいどう「明らかにとんでもない」のか。何人にだって糞はいる。「チョソン」は差別語でも何でもない。辞書引くだけでわかる話。

7.印象操作1

p.23、8行目から急に奇妙な話になる。

「私のような一県民ごときが、恐れ多くて口も利けないような偉い人がいる。」

なんだこれは。

「一県民」に「ごとき」とつけ、恐れ多くて口も利けない偉い人がいる、と。そしてこの後に続くのは、ベルク店長井野の祖父と、ベルク擁護派の一人高橋健太郎らしき人の親の社会的地位の話である。「一県民が口も利けない偉い人」とは、「安倍麻生」や「戦前の偉人」や「高級官僚」や「通産省にいた」人なのか。

あんたよくそのひねくれた感性で路上の抗議の場に出たね。

しかも本人ではなく、祖父と親の話。何の関係があるんだか。そのあとに続くベルクの客層の描写は支離滅裂で意味不明。自宅でパソコン検索して集められる情報で飲食店の質がわかると思っているわけだ。おめでたい。

自分は「一県民ごとき」で、アホフェミ批判派は「高級官僚」や「戦前の偉人」の類ですよ、という印象操作である。これがどこへ向かうリードなのかは、小説の最後でわかる。TPP(環太平洋連携協定)の発効や種子法、水道法に触れたのち、笙野はこう書いている。p.32 下段14-18行目

「結局一番良いことは撤退した政権交代なのだ。つまりいつまでも婦人参政権をないことにしてしまう、あの男尊左翼を私は当面まずなんとかするしかない。彼らは結局政府と同じなのだ。救われたいものを、諦めさせることだけがその望みなので。」

「結局政府と同じ」、だから政権交代を望む人たちはまずベルクに集まる反差別界隈をなんとかしろ、と。

8.笙野による「アホフェミ」の解説

 先に進もう。p.23 上段20行目以降で使われる「差別語」「女性差別語」とは「アホフェミ」のことだ。

「その差別語は大変な便利な(原文ママ)「武器」であった。例えばただ相手に件の一語を言い捨てるだけで、女性解放運動全体も侮辱できるし、フェミニストを自称していない女性に対してもレッテルを張った上で嘲笑できる」

「セクトに逆らうバカ女」や「資本主義のメスブタ」のような使い方が「できる」単語らしい。

で?

いつ誰がそんな使い方したのか。

4か月ツイッター上の「アホフェミ」の使われ方をつぶさに追っている者として書く。そんな使い方をしてきたのはせいぜい便乗してきたほんの数例のネトウヨとセクシストだけで、それが広がった形跡はない。反差別界隈には関係ない。だいたいそんなパワーワードであれば、とうの昔に各種反フェミ勢力が使いまくっているはずだが、その痕跡もない。

作家が言葉狩りしてどうするのか。

もう一つ、「バカ女」や「メスブタ」、ついでに「同和ゴロ」も表記するのに、「アホフェミ」は表記しない、と。その理由が、これを差別語と考えるから伏せる、ではないことが、ここで明らかだ。

9.野党?

p.23下段8行目からの「野党は彼らと一線を引かない」云々は知らない。しかしね、「ある党に」と書きながら「赤旗文化部」…。参考までに、10月28日に日本共産党が「JCPサポーターまつり」という支持者向けのイベントを開催していて、反差別界隈のものが何人か参加している。

10.「ヘイト暴力のピラミッド」の簒奪

(この節2019.1.15改稿。Smash! Hate Projectが「ヘイト暴力のピラミッド」の製作者というのは誤りでした。訂正に伴い全体を改稿しました。)

次。18-19行目「うら若い女性たちが女性差別語の取り消しを求め続ける中」。これは「アホフェミ」論争でのアホフェミ側の態度だ。アホフェミ側はほとんどが匿名アカウントなのだが、なぜ「うら若い」とわかるのだろうか。「うら若い」の基準は何か。これも印象操作であろう。

20行目「ヘイトピラミッドの図式にぴったりとあてはまった」とは、ベルク批判派のこの投稿を指している。p.23-24で怯えていた女性と言われている一人はこの人物のことだろう。

この「ヘイト暴力のピラミッド」の図は、2009年の京都朝鮮学校襲撃事件に関するサイトに紹介されている。インターネットテレビ、NO HATE TVの10月31日の配信で、これをアレンジした「レイシズム暴力のピラミッド」が紹介されており、この人はそれでこのピラミッド構造を知ったことが投稿からうかがえる。


法で規制されるようになったこともあり、暴力につながっていく「ヘイトスピーチ」には、反差別運動で守られるべき定義がある。ヘイトスピーチ、ヘイト暴力は、あるマイノリティ属性を持っていれば無条件にその対象になる可能性があり、そこでは個人の人格や思想は考慮されない。属性だけで判断されるから問題なのだ。「アホフェミ」論争での「アホ」には明確な批評性があり、「女性」という属性や「フェミニスト」というだけでアホと決めてかかる言葉ではない。だから「アホフェミ」は、このピラミッドの「偏見による行為」や「積む石」ではありえない。

先の投稿は24時間たたないうちに、このピラミッドを使って啓発活動をしているアカウントから猛批判されている。

このアカウントは↓からの一連のやりとりで、この人物を引き続き猛批判している。担当者が女性らしいことにも注目。

他の人が作った図を借用して自説を展開し、誤用を指摘されても居直るアホフェミ。それに便乗する笙野。この行為は反差別理論の簒奪である。

簒奪者・笙野頼子。イカフェミとはお前のことだよ。

それと笙野先生、ご自分の分析でもないものを勝手に自説のように書くわけですね。お年おいくつですか?

11.「御用フェミニスト」とは誰のことか

p.24 2行目から。

「それでもなおこの「反差別」の専門家達は、差別してよい女性と、奴隷に出来る女性のしわけを、やってのけていた。そしてそのための、つまり逆らう女性殺しの女兵としての、御用フェミニストを求め続けた。」

これはおそらく野間易通が繰り返し、フェミニストによるフェミニズムの自浄の必要性を投稿していたことを指している。その一例は10月17日の↓である。

なぜ反差別界隈がアホフェミを批判したかは5.ですでに見た通り。なぜそこでフェミニズムの自浄が言われたかというと、女という当事者性に立てこもって男に批判されると差別だーの一点張りで拒否、次々と他のマイノリティ差別も誤用しながら自分たちの我儘を居直ってベルクを愚弄しつづける自称「フェミニスト」達を放置すれば、崩壊するのはフェミニズム自体だからだ。

野間のこのツイートをリツイートしたのち、呼応する形で私は直後に次のような投稿をしている。

このツイートは反差別界隈にリツイートされたことにより、1~2日遅れでベルク批判派にも読まれた。リツもいいねも大した数ではないが、ベルク批判派はこれを大量にスクショで使っている。コメント欄も炎上した。

ベルク擁護派でアホフェミ批判していた女性アカウントはいくつもある。が、次に出てくる「同和ゴロ」は、「アホフェミ」論争で確認できる限り私しか使っていない。会話の相手への配慮によりリンクは控えるが、10月25日に

「「アホフェミ」と同じ構造の言葉は「同和ゴロ」」

と投稿している。アホフェミや笙野が同和ゴロだと言っているのではなく、どちらも被差別当事者による反差別運動の中の、一部の悪辣な勢力を指す言葉として言語構造が同じ、と言っている。当然ながらこんな言葉を使うことには相手選びも文脈も極めて慎重で、「俺は被差別部落出身者だけれど部落差別反対を言っているやつにも糞はいくらでもいる(…)」という他の方の投稿へのリプである。

8-11行目、

「この言葉、案外ネットでは普通に見るものだ。というのも差別に抗議された横柄な御仁達は、判で押したように下々に向かって、そうのたまうからだ。」

は、私の使い方と何の関係もない、笙野の妄想。なお「同和ゴロ」は部落解放運動をする人たちも、ある種の同胞への批判として使う言葉だ。

「奴隷にできる女性」、「女殺しの女兵」、「御用フェミニスト」とは、誰よりもまず私が念頭にある表現と見るのが妥当であろう。

12.笙野のセクシズム

先の私のツイートに戻ろう。このツイには前段がある。そこで添付されているくたびれはてこの投稿は10月9日19:07:42にされているが、これに対して直後に引用リプで以下のようにコメントしている。ツイッター上での表示制限がかかっているらしいので、リンクではなく、ツイログのスクショを画像で貼る。

この一連のツイートで私は、アホフェミのアホさ加減について「言葉をまともに使いこなせず、そうする気もない分際で言葉で戦っている」という明確な独自の批評をつけ、ソースも画像で添付している。

先の引用をもう一度見よう。

「それでもなおこの「反差別」の専門家達は、差別してよい女性と、奴隷に出来る女性のしわけを、やってのけていた。そしてそのための、つまり逆らう女性殺しの女兵としての、御用フェミニストを求め続けた。」

ここで笙野は、私をはじめ、アホフェミを批判した女性達の知的能力や自律性を無視し、根拠なく男性批判者との間に主従関係を設定するというセクシズムを犯している。

さて、私はどうやら「とどめ」も刺したらしい。

13.印象操作2

p.24 下段1-4行目

「とどめ?そんな方々の中で最も私にきついアカウントで、猫を駆除すべき外来種に指定している図がリツイートされているのを発見した。するともう怖くてリンク先とかは見ていられない。」

ベルク擁護派の中で、猫駆除に関心を寄せる人を、私は自分以外に見かけなかった。私のアカウントはもともと野生動物問題と、そこから派生する狩猟、ジビエなどの発信をするためのものである。それは私のライフワークなので。時期的に、奄美大島のノネコ駆除の何かをリツイートしていたのだろう。

で、猫駆除、女性差別に何の関係があるのか。

猫駆除に賛同するような奴は女も差別するに違いない、ということですかね。ふーん。ま、ここは駆除に対する「賎視」「蔑視」の可能性を示唆するにとどめる。それが何の延長線上にあるのか、までは言わない。

余談ながら笙野先生、言葉の使い方が乱れてますね。「方々」とは。それまで「連中」といっていたのがいきなり敬語ですか。飲み食い「所」といい、「赤旗文化部」といい、「大変な便利な」といい、どうされたんですか。これがあなたの擁護者の言う美しい文章なのですね。とても有能な編集者もついておられるようで。

14.突然の論点拡大

「そんな中で戦争はしたくないし原発は止めたい。遺伝子組み換えでないごはんを食べたいとただ思うだけで、女はこの連中の兵にされた、差別語で罵られ。」

なんでまたいきなり戦争や原発や遺伝子組み換えが出てくるんだか。確かに反差別界隈の人々の中には、反戦や反原発や反TPPの活動をする者もいる。考えうることは、アホフェミと呼ばれた一群にそういう活動で連帯していた人がいたということだろう。で、彼女たちは「兵にされ」てたんですか?あれだけ何を言われても聞かなかった人たちが?

しかも「ただ思うだけで」。何の魔術ですか。

もはや支離滅裂で解読も何もないのだが、その後「暴力事件もあった」などと「しばき隊」関連の噂を横目で見つつ、

「この女性差別をなくしてこそ原発も戦争もTPPも止まると思うから。」

ここで話は笙野の生活のことに移る。反差別界隈、えらい大物扱いである。原発にも戦争にもTPPにも遺伝子組み換えにも責任あるらしい。

この部分には後日談がある。1月7日付けの「しんぶん赤旗」に作家、島本理生と笙野の対談が載っている。

下から2段目の最後の部分

「そして女性差別をやめれば、戦争法は廃止できるし、TPP(環太平洋連携協定)は抜けられる、経済は上向く、沖縄と連帯できる、原発は止まる、と私は信じています。」

この荒唐無稽さは虚構ならではのものではなかったわけだ。もはやフェミニズムは魔法の杖か。

15.この小説が書かれた動機

ここで一旦小説の解読を離れて背景の分析に入る。まず執筆の動機について。笙野自身による説明は1.で示した通りだ。しかしここには不自然さがある。

最初に岡和田のブログでコメントを発表したことが、自身の造語が女性を差別する言葉を肯定する道具として使われることへの異議申し立てである、とするのは一応の合理性がある。しかしこのことさえも、笙野の勘違いに基づいている可能性がある。この点を森川は次のように説明する。

仮に森川自身の言う通りだとすれば、彼は「アホフェミ」と「イカフェミ」を、その言葉の意味で並列したのではなく、「フェミ」と略すことが差別かどうかという文脈で、その言葉の構造を比較したまでだ。なお「フェミ」という略称は笙野も岡和田のブログで繰り返し使っている。

とはいえ、私はこの森川の言い分を元の文脈までたどって確認はしていない。なぜなら笙野が「群像」で、小説の形で再度書いた理由は別にあると考えているからだ。

最初に発表した見解で、笙野が「アホフェミ」という言葉の使用に同意しないこと、その言葉と笙野の造語「イカフェミ」は別物と考えていること、はすでにツイッター上で論争の両サイドに共有された。その時点で笙野本人や作品が「捕獲される」回路は切断されている。

その後アホフェミ批判側が笙野を援用した形跡は見当たらない。当然である。アホフェミ批判側には笙野の読者が何人かいたが、みなこのコメントで失望したのだ。それにもともと使っていたのが森川の一言のみなのだから、全体として笙野のことは枝葉なのだ。

謎を解く鍵はp.22下段23-25行目にある。

「今も私をも侮辱していて、彼らにとってだけ、納得の行く回答を求めてきている。」

これには思い当たることがある。11月16日の私のツイート。

「群像」は毎月7日発売だから、先の引用にある「今も」を、11月半ば~後半とみることは合理的だろう。↑のツイに画像添付してある岡和田のツイートは、私が「アホフェミ」を定期検索し続けていて拾ったものだ。

笙野が「群像」で、反差別界隈についてわざわざ3ページも割いて書き連ねた理由は、森川の投稿ではなく私から言われたことにあると考えるのが妥当である。何しろ私は「最も私にきついアカウント」なのだ。そしてそう認定された投稿は、まず間違いなくこれ↓。

これが森川の投稿への引用リプになっているのは、森川の元ツイに岡和田のブログへのリンクが含まれるからだ。私は最初このリンクから笙野のコメントを読んだ。執筆は、最初のコメント発表後の私のこの批判に逆上したことが一番の動機と考えるのが合理的である。つまり私憤。

なお、あえて「逆上」と書く。決して「反論」ではないからだ。この私のツイの前半部分は何一つあいまいさのない明解な批判だが、これについて笙野はただの一言も答えていない。否定するならすればよい。それが反論というものだ。それに対して最後の「恥じろ」には、「恥を知れ」という形で作中で二度も触れている。さらに私についての言及は、「同和ゴロ」×2、「女性殺しの女兵」、「猫駆除」、「今も私を侮辱」と、たった3ページの中に計7か所もあるのだ。そして肝心な批判には触れることさえもしていない。反論がどうのという以前に、「論」の体をなしていない。

16.「暗号化」が意味すること

もう一つの謎は、なぜ文学の形式をとり、特定の固有名詞を消去したのか、だ。反論したいのであれば最初のコメントでした通り、平文ですればよい。ここでの私の目的にとって、この作業が「暗号化」であることは0.で述べた通り。この動機は何か。

先に断っておくが、固有名詞の消去は、プライバシーへの配慮ではありえない。なぜなら私をはじめ、作中で言及されている反差別界隈の者は、解読できた限り全員実名の公開アカウントだからだ。すでに当人が実名で公開で発信している内容を批判するにあたり、誰の話なのかを隠すことは、ソースをたどって真偽を確認する障害になり、議論の透明性を損なうだけである。

手掛かりになるのは、作中の「O川A太郎」という表記だ。これが文芸評論家、小川榮太郎を指すことは論を待たない。このように表記する理由は、まずは笙野自身が作中で説明している。p.31 上段20-22行目

「ここは決して実名なんかで表記すべきではない。紙の媒体で下手に名を呼ぶと文芸誌に入ってきて迷惑だからである。」


ここには作家が書くことや、出版社がそれを公刊することに伴う責任の自覚が露ほどもない。あるのは馴れ合いの相互扶助だけ。職業倫理が崩壊している。

それではなぜ、我々と同じように、完全に名前を伏せなかったのだろうか。

単に小川を批判するだけであれば、実名で、平文で書けば済むことで、実際笙野は北原みのりと二人でネット上でそれをしていることは、本作でも書かれている通りである。

この中で笙野は小川を「痴漢擁護者」として批判している。「群像」で改めて小川のエピソードに触れるのは、「これは痴漢擁護者・小川榮太郎を批判する反女性差別の小説である」と読者に表明するためだろう。そのためには「暗号化」を、誰が見てもわかる程度にとどめなければならない。しかし本人から抗議されるような、付け入られる隙があってはならない。その結果が「O川A太郎」。

溜息しかでない。

反差別界隈の者には小川榮太郎のようなネームバリューがない。うっかり名前を書けば、個人攻撃と言われかねないし、何より、声を上げる人々なので抗議もされる。名を伏せれば「あなたのこととは言ってません」で逃げられる。実際のところ、笙野は過去、同様の事案で文芸評論家の小谷野敦に名誉棄損訴訟を起こされかけている(2019.1.15訂正。小谷野が実際に提訴に至ったのか未確認なので)。この時小谷野は、名前が伏せられていることが反論の妨げになったと書いている。

つまり、固有名詞の消去は、議論の回路を断ち、自分勝手に放言するための準備作業なのだ。「アホフェミ」の消去も同じ。

デマへの加担、印象操作、反差別理論の簒奪(2019.1.15 10節の改稿に伴い変更)、セクシズム、これらは批評ではありえない。そこには論理がない。この小説で笙野が反差別界隈とベルクにやったこと=論理なき罵倒は、暴力である。

「暗号化」は、それが具体的に何を指しているのかが傍目に見えなくするしかけ、つまり暴力の密室化の手段である。「笙野が文学で何をやったのか」という、この記事の主題に基づくなら、これを「具体的な名前を出していないから登場人物の社会的評価を棄損していない」ということに還元してはいけない。むしろ名前を伏せることが笙野の悪辣さ、作家としての倫理観の欠如を積極的に表しているからだ。

なお、フィクションで書くことについては、「群像」p.23 上段4-6行目に、謎のフレーズがある。

「昔差別落書きというのがあったけれど、それと同じようなひどい言葉を、わざわざフィクションではないところで言ってのけるのだ。」

どうやら笙野はフィクションで書くほうが罪がないと思っているらしい。何のことやら不明だが、考え込むのはやめて、笙野自身の言葉を当てておく。笙野頼子・北原みのり「私たちは抗議する」より。

「虚構がデマ、ヘイト、差別助長のためにひどく使われるなら心ある人は怒るしかない。」

17.この記事のタイトルについて

最後にタイトルについて触れておく。この記事のタイトルは当初、「返信を、待ってます」にするつもりだった。むろんこれは笙野の小説タイトルのアレンジであり、私の11月のツイートのリピートである。何しろ私は、まだ返信をもらっていないのだ。

しかし。

私は返信を待つ必要があるのだろうか。「アホフェミ」論争を通して私が見る笙野頼子は、議論ができない人だ。勘違いで参入し、批判には応えず、反論ではなく反発を、虚構の体で関係ない場所に、暴力として発表する。そして笙野が戦っている相手は虚像、あえて文学的に言えば「風車」なのだ。ツイッター上では、笙野の小説作法を「藁人形叩き」と評する者もいた。もし返信を「待つ」のであれば、それは私が自らを風車や藁人形の位置におくことになりはしないだろうか。私は人間ではないか。

「アホフェミ」論争までフェミニストを自称していなかったし、自分には自分の専門があり、フェミニズムにあえて取り組む必要も感じていなかった。アホフェミ共のあまりの愚劣さ加減に、フェミニストであるとはどういうことか、それがご専門の方にツイッター上で聞いたところ、女性が人間らしく生きる上で感じた違和感を表明すればそれがフェミニズム、という趣旨のコメントがついた。

ならば。

この記事を公開し、返信を待たない。それは私のフェミニズムだ。

奴隷と言われたことへの最良の反証は、自由でいることである。

(2019.1.15追記:私がこれを公開する一番の目的は、後学の方のリファレンスの為です。今回の件について考えを整理するにあたり、同様の事案を先に戦われた方々のアーカイブが参考になりました。この記事もそのようにお役立て頂ければ本望です。)


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井上不二子

マガジン2

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