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便意の果てに到達した「サーキュラーエコノミー(ソサエティ)」の真理について

もうぼくはダメかもしれない


特急電車


腹痛


京都への移動中


みなさんもご存じの通り、腹痛である間、別のことは一切考えられない


そう、腹痛は人の思考を解体し、殺すのだ


もし、人に連続的かつ継続的な腹痛を恣意的な形で味わわせることができるのなら、組織や国家でさえ動かせるかもしれない


だが、腹痛は修行僧のように意識を無に帰していく鍛錬としては良い


なにも考えずなにも感じない


そうして途方に長い15分間を過ごす


猛烈な腹痛の際の15分と普段の15分では圧倒的に体感時間が変わってくるという統計データはないけれどなんだか違う気がする


・・・


心なしか、電車自体もおずおずと京都駅についたような気がした


大丈夫、まだ俺はやれる


しかしだ、しかし走ってはいけない


おさない、はしらない、しゃべらない


小学校の頃に覚えたそんなフレーズがリフレインする


そんなぼくは走らず、しかし歩かず、そのちょうど中くらいの状態(これを人は小走りと呼ぶのかもしれない)で移動する


そうしてぼくはトイレに滑り込む


よかった、これで救われた、、ほんとうによかった、、


しかし、個室トイレは満室である


ばっか!もうばーーーか!やめてまえ!


これは大変によろしくない


ワールドエンドとはこういうことだ


諦めたらそこでゲームセット


けれども人生にはいくつもの諦めないといけないことがあるんだ、、


などと思っているひまもなく、脳内は便意に関することでいっぱいである


いつかどこかで読んだことがある


貧困状態は、催しているのにまったくトイレが見つからないことと同じだ、と


つまり、貧困というのは、今にフォーカスしないといけないあまりに、先のことや将来、夢のことを考える余地のない状態なんだ、と


そんな文章をどこかで読んだことがある


まだ未来(個室トイレ)の扉は開かない


・・・


先生、ダメでした、ぼくは、ダメでした


そう思いそうになったとき、うしろから視線を感じる


目配せでコミュニケーションをとってくれるおじさんがそこにいた


「外の多目的トイレが空いているよ」


彼は無言でそう言っているようだった


いや、おじさん、とぼくは思う


さっき多目的トイレは確認している


清掃中だったんだよ、おじさん


諦めと、しかし一縷の望みが交差する


今この場を動いたら別の人が並んでしまうかもしれない


でも清掃が終わっている可能性もあるかもしれない


しかし、動いた上で多目的トイレが埋まっていればジ・エンドである


リスクを取るか?リターンを取るか?


経営者としての判断に迫られる


「やろう、やってみようよ」


爽快だった


チャレンジングな経営判断だった


そして、多目的トイレは空いていた


じんわりと込み上げてきたものは便意ではなかった


ありがとう!おじさん、、、!


振り返るとおじさんはもういなかった


・・・


用を足す


思考の波が押し寄せてくる


圧殺されていたすべての思考が流れ込んでくる


しばし考える


便器に座しながら考える


あの返信も返しておこう


スマホをいじる


そのとき


あっ、、いけない、、


ぼくは思った


ぼくは気づいてしまった


もしかしたら今まさに、ぼくと同じような状態でトイレの外側で待っている人がいるかもしれない


生きるか死ぬかの、跳ねるか潰れるかの大いなる岐路に立たされている、過去の自分自身がいるかもしれない


そんな中、彼らにとっての楽園であるこの多目的トイレで無為な時間を過ごしてはいけない


ぼくはすぐに席を譲らないといけない


そうしてぼくは直観した


これが「サーキュラーエコノミー(ソサエティ)」ということなんだ


経産省が出している循環経済ビジョン2020にはこうある


「循環経済とは、あらゆる段階で資源の効率的・循環的な利用を図りつつ、付加価値の最大化を図る経済」だと


他の説明では「『大量生産・大量消費・大量廃棄』を基本とする従来型の経済を『線形経済』とすると、サーキュラーエコノミーは『3R(削減・Reduce、再利用・Reuse、再生・Recycle)』を基本としながら、技術革新などを通じて資源循環を促すことで新たな価値を生むことを目指す経済活動やその体系」ともある


一抹の違和感があった


資源を循環させる、ということのみがサーキュラーエコノミーではないのではないか


ビジネスとしてのエコノミーと、経世済民としてのエコノミーの違いがそこにあるように思っていた


しかし、適切な説明や具体的な体感がなかった


だが、この便意からの一連の流れでぼくは「循環」ということについての真理に到達した


重要なことは、きちんとバトンを渡していくという、そういうメンタリティと行動(リアクション)のことであったのだ


ぼくは、トイレの神様(おじさん)からいただいたバトンを無に帰してはいけないと思った


ぼくはいただいたバトンをしっかりと次世代に、次の人に継いでいかないといけないと思った


循環する(循環させる)ということは本質的にそういうことなんだ


なにかを付与されてしまったことへの自覚・気づきと、それに関連したリアクションのこと、それらを一連的にとらえて「サーキュラーエコノミー(ソサエティ)」と呼んでみたい


誰かと誰かのあいだで循環していくこと、時間を超えて手渡していくこと、もちろん、環境負荷を減らして資源を循環させていくことも


循環には時間的なパースペクティヴが重要だ


過去から受け継ぎ、未来に手渡していく


そういった感覚を手放さずに、ぼくは生きていきたい

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