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天賦の才、というもの

昔から、「人って全然違うんだな」と思っていた。
それはその人の持っているスキルと才能が違いすぎる、ということ。
学校に入った時、同じ年齢で同じ内容を習っても、軽く出来る事となかなか上達しない事、もしくはできない事があることに気づく。
例えば。私は勉強することや文章を書く事、絵を描く事はそこそこできるけど、授業でやる体育は苦手で、特にマット運動や短距離走、平均台とかめっちゃ嫌いだった。
遊びでやるテニスやバトミントン、ダンスやマラソンとかは好きなんだけど、こういったものは当時体育のカリキュラムにはなかったし。(マラソンだけは冬にありましたね。これは好きだった。だって、自分のペースで走ればいいから)
今はダンスが授業であるけど、それはそれで今学校に行く年齢だったら、それも嫌だったかも。(集団でやるスポーツが嫌いだったから、球技でもバレーボールとか、大嫌いだし)
学校の授業でやるたび、こんな事私の人生で2度とやる事ないのに、なんて無駄なんだと思ってた。
そして何より、運動会。それに向けての練習とか嫌いだった。
苦手な事をするのはめっちゃ疲れるので、プログラムのリハーサルとか練習とかで、ヘロヘロになる事、そして授業が潰れるのも嫌だったな。
そしてそんな苦労して炎天下の練習の日々を耐えたのに、小学校1年から3年生くらいまで、運動会当日は熱出してたか、鼻血出して保健室のベットに寝てた。
苦労したのに、当日半分くらいしか出れなかった。
その意味でも、ホントあの苦労の日々は無駄で実害しかなかった。私にとっては。
私は別に体は弱くないけど、あんなに体調崩すとは。今思うと練習よっぽど嫌だったのね、、。
逆上がりも出来なくて、できるまで居残りで練習させられた事も嫌な思い出だな。うん。ほんと、無駄な時間だった。
あれは、やらなくてはいけない、と決められたものをやる「訓練」以外の何物でもない、と思うのです。

私が、体育の授業で簡単なことを四苦八苦しているのに、あっという間に教えられたことを身につけて、それ以上のことも少し教えられたらできてしまう人もいる。
私がマットで後転がスムーズにいかなくて苦労しているのに、運動の得意な人、その分野で才能がある人は少し教えてもらったら、バック転をさらっと決めたりしてる。
同じように教えられたとしても、元々スキルのレベルが全然違うのです。
私が、他の全てを犠牲にして練習しても、バック転を決められるとは思えないし、それに楽しみや喜びも特にないし。
その才能を持っていない、としか言えないのです。

このことからも、私たちは、自分の好きなこと、できることをもっとやっていったらいいし、苦手でできないことをやっていても、労力ばかりかかって利は薄いので、できるだけやらずに済む方法を考えて回避するのが大事かなと思う。(学校に通っている時代は、これは結構難しいですね。大人になって、大変なことも多いけど、これに関しては、大人になって良かったなと思う。)

得意なこと、好きなことにもっと時間を使う。苦手なことに割くほどの、余分な時間は、私たちの人生にはないのです。

子供の頃にすでに現れている、自分の才能を伸ばす。これがはじめからできる人は少ない。自分が好きなだけで「特別な才能など、自分にはない」「自分に簡単にできるから、みんなもできるはず」と、自分が持っている才能を軽んじてしまうのは、人生の初めにはよく起こることです。

だって、「好きであることが、自分に与えられた天賦の才」だと、誰も教えてはくれないのですから。
自分の才能に迷ったら、自分がやらずにはいられないもの、避けて通れないもの、誰かに反対されてもやりたいもの、自分ではできて当たり前だと思っているけど、他の人から褒められたり、教えて欲しいと言われるもの。それがあなたの才能で、この世界で発揮する事が出来る能力。
今それを、自分が得意だと思わなくても大丈夫。あなたがさらっと出来ることが、他の人には簡単にはできず、お金を払ってでもやって欲しい事がある。
あなたが、それをすることが自然だったり、喜びを感じるもの。
あなたの中にある、天賦の才を「今」発揮してみる。
自分の才能を、使って生きると決める。





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