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『石川淳選集』

19世紀の末1899年生まれのこの文人は敬して近づかずというか、むかし長編を一度手にしただけ(よく分からなかった)で、何もなければ無縁のまま終わる人だった。それが先日松浦寿輝が言及していた「無明」という短編作品を読んでみたくなり、標記選集9巻(短編小説集)を手にとり、ついで同14巻(評論・随筆集)を読み終えた。

石川淳の名は若い頃から知ってはいた。しかし石川に言及する文筆家がだれであれ、文脈がどうであれ、決まって表される畏怖畏敬の念に気づいていて、それだけいっそう近づきがたかった。

短編小説はほぼ江戸や明治初期に材をとっている。旧仮名遣いはもちろん、漢字も徹底して旧字体であり字面は古色蒼然。驚くのは、表現の古色や筋の錯綜にも関わらず、叙述がきわめて明晰なこと! 内容が自然に頭に入ってきて、前段にとって返して事実関係を確かめるという必要がほとんどなかった。頭の良さがダイレクトに伝わってくる。

評論・随筆は江戸の古書籍をふまえたものがほとんどで、話柄は江戸時代の文学思想、風俗、芸術に広く深く及ぶ。切り詰めた文体は鋭く明晰で、フランス文学の邦訳や教授経験もあるその教養は、日本の17世紀や18世紀を扱う文章のなかにときおりフランス語の単語や詩句を挿入したりもする。評語、断案、鑑賞眼に迷いがなく、和洋に及ぶ教養の奥深さ分厚さを感じさせる。

そんな江戸文化の泰斗から、敬愛する秋成、蕪村への賛辞が聞けたことはこの上ない歓びである。

松浦も触れていたが、当選集(岩波書店)の装丁がすばらしい。箱入りだが新書版の大きさで、二段組みの活字は細かく光の具合によって老人の目にはやや厳しいが、布装のつくりは適度にたわんで手にやさしく収まる。

余談だが、カメラマンの石川直樹はその孫であるらしい。面影がよく似ている。

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