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努力という名の呪い

 僕は十数年近く、ニコニコ動画やYouTubeで「岡田斗司夫ゼミ」を観ている。
 真面目に観ているときもあれば、作業ついでに聞いていることもあるのだが、岡田斗司夫氏がニコニコ動画でゼミを始める前の動画も含め、無料で観られるものは何度も繰り返し観ているほどのヘビーユーザーではある。
 そんな僕は少し最近まで、正直に話せば、世間の言う努力という言葉に対して、かなり懐疑的になっていたことがある。
 何故そう考えるようになったのか、それは、この動画を観て、とてつもない衝撃を受けたからだ。

 この動画は、岡田斗司夫氏がマイケル・サンデル氏を『実力も運のうち~能力主義は正義か?』を語りながら、能力や才能で人を見ることが、人種や性別よりも見えにくい上に残酷な、能力主義によって生み出される差別と、能力の差によって閉鎖的になっていく社会の現実を突きつけた動画である。
 これを観てから、僕は「努力をすれば報われる」「努力! 友情! 勝利!」という言葉に疑いの目しか向けられなくなった。
 その努力をする力そのものが遺伝と環境で決定されており、偶然その時代と合致しなければ、成功に結びつくことはない。どんなに頑張っても、永久に報われることなどないかもしれないからである。

 ここまで言うと、大半の人は怠けるための言い訳をしているように感じるだろう。実は僕も、そういう風に考えていたタイプだった。
 しかし、今の僕からすれば、その人は親から遺伝と時代によって、“そうなるしかなかった人”にしか見えなくなり、逆に、怠け者だと指を差す(またはそういう視線を向けている)人たちが、無意識に能力と時代が合わなかった人を差別し、嘲笑う人たちにしか見えなくなった。
 だが、そんな彼らもまた“そうなるしかなかった人”なのである。彼らは自らの能力でのし上がっていくうちに、心の通じ合う者同士で仲間を作り、お互いを庇いあっていくうちに、そんな卑しい人間になってしまっただけなのだ。
 その上、この現象は「能力がない」と決めつけられた人々にも起こり得ることであり、今の社会で起きている、数多くの戦争なり対立なりの原因になっている。人が人であるが故に、どうやっても抗うことができないのだ。
 そう考えたとき、こんなカオスが粘つくように渦巻く世界に生まれたことを、そんな世界にしてしまった人間たちから生まれたことを本気で呪いそうになった。

 とはいえ、今更呪ってどうにかなったら苦労しないので、ここから先どうやって生きていこうか、深く考えながらいろいろ描いたり作ったりして過ごしていた。

 結論としては、もう時代情勢だ流行りだなどを気にせず、こちらのしたいようにさせてもらおうという考えに至った。
 シナリオが書きたくなったらシナリオを書き、絵が描きたくなったら絵を描き、CG使ってなんかしたくなったらそれをする。よっぽどお金を積まれるか、面白そうなことでもない限り、したくないことは可能な限りしない方がいい。
 その態度が気に入らないという方は、僕とは永久に絶縁してくれてもかまわないし、是非とも応援したいという方の好意はありがたく受け取る。来るもの拒まず去るもの追わずという精神である。

 僕がどんな物事に対し、心の底から努力できるのか、わからないことの方が多い。だからこそ、自分の頭でなんだかんだたどり着いたこの直感を、ある程度信じて突き進んでいこうと感じた。
 そんな僕に温かい言葉を向けてくれるなら、恥ずかしがらずに「ありがとう」と「これからもよろしく」の、この二言を送らせていただきたい。

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