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田部京子さんのピアノ演奏と町田康さんの著書「入門山頭火」について

思い起こせば、ポピュラー音楽ばかり聴いてきた私が、クラシック音楽に興味を持ち始め、初めてサントリーホールでピアノ・リサイタルを聴き、その感動を何かに残しておこう、と思いつきnoteへ初投稿したのが2年前の春のこと、

それ以来、クラシック音楽に精通した方々、ピアニストの方々、または、ご子息がピアノを弾く方々にフォローしていただき、それにつれ、私のほうもさらにピアノへの関心を抱き、

いろいろと感想を書いてはみるものの、そこは素人でも鍵盤をたたけば音が出るという合理的な仕組みのピアノゆえに、真に素晴らしい演奏を聴いたとしても、それを言葉にするのがはなはだ難しく、

また、私が匿名で書いている手前、出演者への批判、落ち度は決して書くまい、と努めてはいても、読む人の受け取り方次第で、記事を不快に思う人はいるはずで、ならば、些細なことには気を遣わずに、正直に思った通りのことを書けばいいのに、

結局「よかった」「素晴らしかった」「感動した」などのありきたりな言葉を使いまわして(多少)ごまかしてきた感があり、このままではいけない、ああどうしようと思って、ない知恵を絞って絞って、解決策を練りに練ってはいるのですが、

だからといって、いろいろな録音された音を聴き比べて理解するという努力もせず、時間ばかりが経過して、また次のコンサート、また次のリサイタルという流浪の演奏会体験記となってゆき、

そう、だからこそ、演奏会以外の事柄などを関連付けては、その意外な組み合わせで「へぇ~」と感想を漏らしていただければ、それで幸い、という思いで書き、なもんだから肝心の演奏会の様子や感想がほんの少ししかない、ということもよくあることで、

だから結局何なんだ、何をいいたいのだ、という声が聞こえて来そうなので、そろそろ、自由律俳句の俳人、山頭火(1882-1940)が読んだという俳句をご紹介いたします。

分け入つても分け入つても青い山

私がピアノやクラシック音楽の「山」に分け入って、迷いながらも進むしかなく、ひとつ理解すれば、ふたつみつ疑問が沸き、それを承知の上で立ち向かい、調べて書いて記事の投稿を続け、されどゴールは見えず、という気持ちでいるのと、この句に共通点がありそうで、なんだか山頭火に親近感が湧いてきます。

と、小説家でも歌人でも俳人でもない私がテキトーな解釈を含めて、勝手に山頭火へ親近感を持ち紹介しておりますが、正しい解釈は正真正銘の小説家「高校で登山部だったパンクロッカー」町田こうさんが「入門山頭火」という本で丁寧に解説しています。「つ」が大きいとか。

2024年3月6日(水)11時、

東京芸術劇場コンサートホールで行われた「芸劇ブランチコンサート」で田部京子さんのピアノ演奏を聴いてきました。

吉松隆さんが作曲した「真夜中のノエル」という曲がシンプルなアルペジオに倍音がキラキラきらめいて、美しいのなんのって、私は初めて聴きましたが田部京子さんのピアノにすっかり魅了されました。一耳ぼれです。

ユーチューバーのnacoさんが厳選クラシックちゃんねるで、作曲家吉松隆さんと田部京子さんへのインタビューを編集し、配信しています(動画はこちら、「真夜中のノエル」をBGMとして約2分の解説です、動画全体は約40分)。

アンコールで演奏されたシューベルト作曲、吉松隆さん編曲の「アヴェマリア」もよかった。ホールに響く枯れて乾いた弱音の和音で演奏が始まったとたん、なぜか腕が「ブルッ」目に涙が「ポロッ」ときました。

最後に「入門山頭火」から、もう一句引用します。

どうしようもない私が歩いてゐる

そうそう、歩いて、歩いて・・・

どうしようもない私が見て、聞いて、
感じたことを書く、それしかありません。


どうしようもない記事を、
読んでいただき、ありがとうございます。

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